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作品名:深窓の令描 作者:じゅんしろう

第50回   50
 「お前の言う往生とは極楽浄土のことをいうのだろうが、その霊魂はユダヤ教であるから、行くとすれば天国か地獄だ。しかしながらその霊魂は既に何人かの人間を取り殺してしまっている。天国に行くことは出来ぬ。それを望むことは虫が良すぎるというものだ。であるならば、地獄しか行けぬ。地獄行きを望むために祈るというのか」と飯岡はいい、こちらもどうだといわんばかりに茶碗酒を呷った。今度もまた高瀬は腕組みをして考え込んだが直ぐに、「労苦に満ちたこの娑婆から、お去らばすることが出来るのであるならば、天国であろうと地獄であろうと、それは往生だ」と、赤く染まった顔で言い、飯岡を睨め回した。今度はまたまた飯岡が、む、むむむと唸り、腕組みをしたが、それもそうだな、と同調して、酒臭い息を吐きながら頷いた。そして、二人共そのままうずくまる様にして眠ってしまったのである。鴻池が唖然としていると、高瀬の奥さんが隣の部屋から顔を覗かせ、「あらあら、もうお休みのようね、仲の良いことですこと。お酒が弱いくせに、二人はいつもこうですのよ」と笑いながらいい、二人に手馴れた様子で毛布を掛けた。
鴻池は二人の禅問答めいたような滑稽なやり取りの後、高瀬の家を辞した。飯岡の思いもかけない話から、磐乃が古代ユダヤ・キリスト教徒である可能性が極めて強いことが分かったが、千五百年前以上という悠久の昔から続いていることにいささか恐れを抱いたといえる。もしかしたら磐乃は、羽倉家に伝わる古代稲荷神社の最後の伝承者であるのかもしれないと思った。長きに渡って秘密裏に継承されてきたため、本人の資質もあるが、特殊な能力を身につけるに至ったのではないだろうか。そう考えると、今度の出来事が理解しやすい。野上つるに今まで分かったことをまとめ、一刻も早く手紙を出すべく帰路を急いだ。
翌早朝、鴻池は眠たい目を擦りながら余市行きの列車に乗っていた。昨夜は遅くまで、宮下夫妻の話や高瀬家での飯岡の説などこれまでに分かった出来事を速達で野上つるに伝えるべく、長文の手紙を書き上げていたからである。ただ、野上つるに客観的に判断してもらう為、鴻池の主観や想像など余計なことは一切書かず、事実のみを書いた。
車窓から遠く望む山間の残雪は多いけれど、間近に見える、走り過ぎて行く木々の一本一本に緑色の小さな芽が無数に揺れていた。思えばこの事件に関わったのは、木々の枯葉が舞い散りはじめた秋であった。今は長い冬が終わり、緑が萌えいずる春になろうとしている。鴻池にとって、あっという間の半年であった。探偵稼業に入って、このような怪奇的な事件は初めてである。いや、一生に一度の体験になるかもしれない、という予感があった。そして、いよいよ最終段階の本番に突入していくということを肌で感じていた。あとひと踏ん張りだ、と自分に気合を入れた。
余市駅に着くと、ホームは日の丸の小旗を持った大勢の人間で溢れていた。鴻池はそれが出征を見送る人々であることが直ぐに分かったが、意気込んでいた気持ちの出鼻を削がれるような思いであった。昭和十二年七月盧溝橋事件を発端として、同年八月上海にも飛び火し中国全土に戦線が拡大していった。だが一向に収まる気配がなく、泥沼のような戦いが三年近く続いている。支那事変と呼ばれていた。近頃、このような光景が頻繁に見られるようになっていた。鴻池は、いつまで続くのか、と、つい呟き駅を出た。


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