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作品名:深窓の令描 作者:じゅんしろう

第48回   48
話は遡ること千五百年前の五世紀頃のことである。秦氏という朝鮮から渡来してきた氏族がある。秦氏の出自は諸説があり、秦氏自体は秦の始皇帝の末裔で貴族の弓月君であると称しているが違う、というのが飯岡の説であった。中国の五胡十六国時代(紀元三百四年から四百三十九年)にチベット系の低族と羌族が打ち立てた前秦と後秦という国があった。五世紀前後に両国が滅んだとき朝鮮半島に逃れ、更に五世紀半ばから六世紀にかけて日本に渡来してきたのが年代的に合うことからもこの秦氏である。秦氏は土木、養蚕、機織りに優れた技術を持ち、その財力で平安京を造成し、古代日本建設に多大な貢献をした。族長である秦河勝は聖徳太子を支援したことでも有名である。この秦氏は色々な神社を造ったが、広く知られているのでは氏神を祀るために宇佐八幡宮を創建し、全国に広がった。もう一つ、稲荷神社を建立してこれも全国に広がったが、これが問題だという。チベット系の羌族とは、元々は古代イスラエル十二支族(当時は、黒髪,黒目で褐色の肌の有色人といわれる)のうち失われたイスラエル十支族の一つ、マナセ族の末裔とのことである。鴻池の知識はユダヤ人(イスラエル族)が迫害され世界に散らばったことぐらいであるので、この時点では飯岡が何をいわんとしているのか、見当もつかなかった。この部族は中国では景教といわれる古代ユダヤ・キリスト教(ネストリウス派といい、キリスト教では異端とされている。聖母マリアを神の母と呼ぶことを拒否)を信仰していた。ユダヤ教ではイエス・キリスト(救世主)のことをINRI(インリ)と表現する。あるいは日本に来たため、Nをナと訓で読んだのかもしれない。つまり稲荷とは当て字で、本来はイエス・キリストを祀ったものが稲荷神社そのものなのである。したがって、古より代々日本人は知らずにイエス・キリストを拝んでいたことになる。そう語った飯岡の驚愕の言葉に、鴻池と高瀬は思わず顔を見合ったほどだ。
「その頃、他に裏付けとなるような事柄はあるのか」と、高瀬が訊いた。
「うむ、ある。江戸時代に平戸藩主だった松浦静山が書いた甲子夜話の記述にあるのだ」
「ほう、甲子夜話か。知ってはいるが、まだ読んだことは無いな」
「面白いぞ、貸してやるから読んでみろ」 「おお、是非」
「うん。群馬県高崎市平井町に多胡碑というのがあるのだが、これは日本三大古碑の一つでな。奈良時代、西暦七百十一年に多胡郡という地域を遣唐使の功により羊大夫という渡来人に任されているのだが、その人物の碑なのだ。その碑の下から十字架が出てきたのだよ。さらにその傍らから石槨が掘り出され、その中に古銅券が入っていたのだ。それにはJNRIという文字が記されていた。これは頭文字で、ナザレのイエス・ユダヤの王という意味なのだ。これをラテン語では、INRIと表記する。どうだ、繋がっただろう」
また、鴻池と高瀬は顔を見合わせてしまった。
さらに飯岡は話を続けた。
「京都の伏見稲荷大社が総本山であるが、その社家(代々特定神社の神職を世襲してきた氏族)は大西家などがあり、そのひとつが羽倉家である。最初に稲荷神社が創建されたのは和歌山県有田市の熊野古道沿いにある糸我稲荷神社である。建てられたのは白雉三年(西暦六百五十二年)、その社家は羽倉氏であった。和銅年間(七百八―七百十五年)建立の伏見稲荷大社よりも六十年ほど古い。
 その一支族が何らかの理由で北海道に渡ってきたのだろう。また、戦国有力大名では土佐の長宗我部氏が秦氏の後裔と称し有名である。更には薩摩島津家も秦氏の分かれであるが、家紋は丸に十字であるから当に十字架を意味する。イエス・キリストは十字架に掛けられ処刑されたが、日本も明治初期まで磔の刑が行なわれている。私が知る限り、処刑法としてそれ以外の国では見られないようだ。」その言葉に高瀬が反応し、「島津家は鎌倉時代から名が見え、戦国時代を経て幕末まで生き残った。いや、明治維新の原動力となっている。そうなると、失われた十支族のうち唯一の成功例ということになるな」
「その通り、十字架の威力そのものだよ」と飯岡は言いながら、空になった茶碗を差しだし高瀬に注がせ更に話を続けた。
「ちなみに厳格なユダヤ教の聖典は旧約聖書であり、キリスト教の新約聖書ではない。今、稲荷神社は稲作や商売の神様ということになっているが、或いは古代より羽倉家だけに受け継がれているユダヤ教の何らかの秘密の伝承があるのかも知れない。そうすると、霊魂が三本柱で出来た鳥居がある稲荷の祠に入るのは、ユダヤ教のお祈りをする為ではないのか」と、話しているうちにまた興奮してきたのか早口で事柄を列挙して飯岡が言ったとき、鴻池には閃くものがあった。磐乃の高等女学校時代の後輩である禅源寺の老婦人の顔が浮かんだのだ。磐乃に憧れ信奉していた彼女なら影響を色濃く受け、厳格なユダヤ・キリスト教徒とまではいかなくとも、一般的なキリスト教徒になったのではないかと考えられるからだ。少なくとも理解者になったであろうことは想像に難くはなかった。何故なら、敬虔なるクリスチャンである林竹次郎が描いた五百羅漢図が禅寺に飾られているのにはいささか違和感を覚えたが、周囲に異を唱える人がいたとしても、あの老婦人ならば側面から支援したのではないだろうか。そう考えたとき、磐乃がユダヤ・キリスト教徒であったかどうか、老婦人に確かめる為また古平に行くことを決めた。


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