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作品名:深窓の令描 作者:じゅんしろう

第42回   42
「或る日、いつの間にかとでもいうように、貞子お嬢様のお部屋で、貞子様の膝の上にうずくまっている美しい毛並みの黒猫がいたのです。貞子様は、しきりに、たま、といいながら、黒猫の体を撫ぜていました。それが始まりでした」と秀子が言ったとき、鴻池は惣左衛門から聞いていた久子の場合の時と同じだと思った。それから不思議なことが起こり出したと言うのである。派手好きな巻衛門は商売の接待を料亭だけでなく、しばしば屋敷内で宴を催した。その時、手配した本職の板前や手伝いの仲居が来るだけではなく、何人もの芸者を呼んでいるので、家中大賑わいになるのだという。だが、いつも誰か得体の知れない女が紛れ込んでいるというのだ。宴席に出ることはないが、あるときは仲居であったり芸者であったりして、いつの間にか居なくなっているということだ。共通しているのは、物静かで聡明そうな年増の大層な美人であるという。だが、誰もその女と話のやり取りをした者がいないだけでなく、その声を聞いた者もいない。後になって、あの人は誰、と気がついたときには影のように消えている、ということである。それぞれの仲間内でそのことが噂として囁かれるようになった。今度宴が催されたとき、その正体を確かめてやろうという者もいたが、不思議なことに当日になると、誰もが催眠術でも掛けられたみたいに何も考えることができなくて、後であの女は誰、という繰り返しになるのだ。それで誰もが気味悪がるようになり、巻衛門の屋敷でのお座敷は遠慮や辞退するものが出てくるようになった。やがて、そのことが巻衛門の耳にも入った。巻衛門としてもあらぬ噂が立てば商売にさしつかえるので、屋敷を仲介した高田不動産の高田耀蔵を会社に呼びつけ、以前何かここで不思議なことがなかったかとただした。それに対して高田は、「特別なことはありませんでしたが、しいていえば二十年近く前、ここに住んでいた羽倉磐乃という美しい女性が行方不明になっている」と答えた。巻衛門は、「それだ!」と手を打ち、直ぐに多くの人々を集め見守る中で、数人の祈祷師による大々的なお祓いをすると、そのまま宴を催したのである。大層な賑わいで謎の女性も現れることもなく、成功裏に終えた。何事でも商売に結びつける、転んでもただでは起きぬ巻衛門ならではのことであった。
だが、その夜更けのことである。巻衛門は渇きを覚えて目を覚まし、枕元の水差しに手を伸ばした時だった。ふと、その側に人の気配を感じた。ぎくりとしたが、ふみえが忍んで来たのかと思い、顔を向けてみた。部屋は暗く、長い髪の女のようだが顔は見えなかった。目が慣れ、ぼんやりと影のように浮かんで見える身体の輪郭は細っそりとしていて、やや太めのふみえとは明らかに違っていた。思わず、誰だと叫ぼうとしたが、声が出なかっただけでなく、身体ががんじがらめになったように、まったく動かすことができなかった。いわゆる、金縛り状態である。その影が巻衛門の耳元に寄ると、今後この家で宴はするな、と言ったのである。その影が消え、巻衛門は身体の自由がきくようになり半身を起こすことができた。暗闇の中で、はあはあと荒い息を吐き、夢かと呟いた。すると今度は、巻衛門に何かが襲いかかってくるように身体がじぃーん、と震えまた金縛り状態になった。そして、また女の影が現れ、違えるなよ、と巻衛門に耳元で囁いた。そこで目が覚めた。半身を起こした状態ではなく、布団に横たわった状態であった。つまり、夢のまた夢を見ていたのである。一晩に同じ夢の中で二度の金縛りにあう、このような恐ろしい体験は初めてであった。身体全体がぐっしょりと濡れるほどの酷い汗をかいていた。今度は本当に、恐怖でしばらく洗い息を吐き続けた。だが、朝になると巻衛門はそのことを忘れた、というより無視をした。たかが夢と考えたのである。そのようなことで、事業欲を削がれて堪るかと思った。しかし、その夜また同じ夢を見た。それも夢かうつつか分からぬほどの鮮明なものであった。さらに酷い汗をかいた。だが、朝になると巻衛門は迷った。まだ半信半疑であったのだ。そしてその夜、三度目の同じ夢を見たのである。女の影は巻衛門に迫ってきた。巻衛門は殺されると思うほどの恐怖を感じた。そこで思わず女の影に、今後宴を催すことはしないと誓ったのである。そして、実際そのようにした。それから、その恐ろしい夢は見なくなった。これらのことは、後に秀子が巻衛門の周辺の人たちから断片的に伝え聞いたりして知ったことである。


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