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作品名:深窓の令描 作者:じゅんしろう

第38回   38
高瀬の住まいは緑町という閑静な住宅地あり、上に登って行けば小樽高等商業学校である。訪いを問うと、すぐ奥さんに硝子窓越しに数本の木がある庭が見える居間に案内された。高瀬は読んでいた書物を机に置き、大学を卒業してから十七、八年の歳月を経た細面の顔を鴻池に向けた。
「お久しぶりです、突然押し掛けまして申し訳ありません。先生はお忘れでしょうが、末席を汚していました鴻池です」
「いやいや、訪ねてきてくれるだけでも嬉しいよ。それに、昨年板橋君に会ったとき、君のことも話していたから、思い出していたよ。で、今日の要件は?」
挨拶を交わしたあと、高瀬は渡された鴻池の名刺を見ながら直ぐに用向きを尋ねてきた。鴻池も早速本題に入った。学生時代、意味のない世間話は嫌う人だったことを思い出していたからである。
鴻池は、名前は伏せてこれまでの磐乃に関してのあらましを言い、賢く聡明といわれていた美しい女性が怨霊になってまで、生きている人に害を与えるのが分からないと言った。
「先生、倫理的な面から考えても、私には疑問なのです」
 高瀬は鴻池の話を聴き終わると、「じつに興味深い話だが、君は源氏物語を読んだかね」と、意外なことを口にした。一口にいえば、源氏物語は平安時代に紫式部により書かれた、主人公光源氏という稀代の好色男が織り成す一大恋愛長編小説である。
「いえ、とてもとても」と、鴻池は赤面して否定せざるを得ない。
「うむ、その中で六条御息所という賢明で貞淑な女性が登場するのだが…」と高瀬は鴻池に噛んで含むように説明しだした。それによると、六条御息所は以前皇太子の后であったが、寡婦になった後年下の光源氏に言い寄られ、とうとう情熱にまけて身体を許してしまう。しかし、浮気な光源氏は次々に別の女性と遊び廻って六条御息所を顧みない。誇り高い彼女はそれが我慢ならない。だが、彼女は美しく気高く賢明である。自制心が強く、ドロドロとしたマグマのように燃え盛る嫉妬心を懸命に抑えていたが、ついに生霊になって恋敵を二人取り殺してしまう、と言うのである。
「相手の光源氏に対しては、何事もないのですか」
「そこなのだ。光源氏は憎い男であるが、男性として深く愛し魅せられているのだよ。だから彼女の霊魂は相手の女達に向かい、怨みを晴らすのだ。更に死んだ後も、こんどは死霊となって未遂に終わったが、光源氏が深く愛していた女を取り殺そうとし、いま一つは取り憑いて過ちを犯させてしまう、という恐ろしい女の妄念を持った女性なのだ。人間の魂の底の底は深い暗闇で、本人でさえも分からぬ」と、高瀬は断定するように言った。
鴻池は磐乃の正体を見た思いだったが、その凄まじい霊の執念に、微かに身体が震えてくるのをどうしょうもなかった。同時に鬼女の正体が磐乃であることを確信した。
「先生、その霊魂が時折、屋敷内の三本柱の鳥居が有るお稲荷さんの祠に入って行くようなのですが、何のためかはさっぱり分かりません」
「三本柱の鳥居のお稲荷さんにかね、それは私にも分からんね」と高瀬は首をひねった。
「三本柱の鳥居のお稲荷さんにかね、それは私にも分からんね」と高瀬は首をひねった。
鴻池は高瀬の家を辞したあと、何ともいわれぬずしりと重たい疲れを覚えた。数日前の深夜、屋敷で体験した出来事の恐怖心を克服したくらいでは済まないかもしれない、と思った。磐乃の怨霊は恋敵の梅奴の息子を取り殺し、梅奴を気狂いになるまで追い込んでしまった。復讐はそこで終わっているはずなのに屋敷に住み着き続け、関わる人間にと取り憑き、取り殺している。自分がしている行為は、磐乃にとって明らかな敵対行為であり、下手をすれば自分の命に関わるからである。とてつもない相手と対峙している事をあらためて自覚した。
怨霊と立ち向かう能力は自分には到底無い。一刻も早く野上つるさんに帰ってきて欲しいと、叫びたい気持ちであった。だが、自分は玄人の探偵である。関わった以上、逃げることはその誇りが許さない。つるが帰るまでには、新井巻衛門が体験したであろう恐怖を調べなければならない。更には、磐乃の霊魂がお稲荷さんの祠に行く理由も調べる必要があると、自分を励まし自らに言い聞かせた。


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