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作品名:深窓の令描 作者:じゅんしろう

第37回   37
「いえ、出入りの大工さんの所へ押しかけ女房みたいにお嫁に入ったのよ」 
「ほう、それは良かったですね」 鴻池は秀子に会える可能性が出てきたと小躍りしたくなる思いになった。 「そう、ちょっと苦みばしった男の人でね、羨ましい」 
「では、秀子さんは小樽に住んでいるわけですね」
「東雲町の隣の山田町、ほら、職人坂よ」 職人坂とは仏壇屋、家具屋や指物師などいろいろな職人がその坂道一帯に集まっているため、そう呼ばれている。
「大きな屋敷なら、あちらこちら手を入れることもあるだろうから、当然大工さんが必要ですね」 「ええ、私が奉公する前の話だけれど、その人が初めて手がけたのは、お稲荷さんの祠造りということよ。秀子さんはその時から、惚の字だって」
鴻池はあやうく声を出しそうになった。直ぐにでも職人坂に飛んで行きたいと思ったほどだ。その動揺をかろうじて抑えると、鴻池は仕上げに掛かった。
「そうそう、私の知り合いで家の修理をしたいから、腕のいい大工さんを探してくれと頼まれていましてね、なんという大工さんか教えてくれませんか」
「お安い御用よ、宮下工務店というの。でも、私から聞いたとは言わないでね、恩着せがましく思われたくないから」と絹はそう言ったが、ある寂しい響きが感じられた。今のところ、生活に心配のない身の上のお妾さんであるが、金銭的にきつくても好きな男と苦労して生きてみたいという思いがあるのだろう、と鴻池は感じた。
帰り際ふと気になったので、貞子さんという方はその後どうしています、と訊いてみた。
「貞子お嬢様は、まるで狐憑きにあったみたいで、それで慌てて旦那様は引っ越していったのよ。その時はすでに私もお暇をいただいていたから、よく分からないわ。後のことはあまり知らない」と言ったのである。
巻衛門の追われるように引っ越していった訳が分かった、と鴻池は思ったが、絹には分からないもっと差し迫った事情があるとも、睨んでいた。何故なら、惣左衛門の娘久子もたまにとり憑かれていると言えるからである。だが、まだ命の危険があるほど差し迫ってはいない。その違いの事情は、秀子から何らかのことを聞き出すことができれば推察ができるだろうと思った。更に波次郎が囲っていた梅奴の家まで磐乃の霊魂がとり憑いていたとしたら、その家を斡旋した高田耀蔵にも向けられていたとも考えられる。だから、寝込むほどのことになったのではないか。あれこれ考えてみたが、やはり、磐乃が賢く聡明な女性だったということに、まだ引っ掛かりがあった。その時、ふと、小樽高等商業学校時代の恩師だった高瀬の厳しい顔が浮かんだ。倫理に関する授業の時、人間の本性について語っていたことを思い出したのである。
翌日、板橋から住所を聞き新年の挨拶と称して高瀬の家を訪ねて行った。


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