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作品名:深窓の令描 作者:じゅんしろう

第32回   32
野上つるからは厳しい修行の為、帰郷は今しばらく時間が係り、翌年の春頃になるだろう、という葉書が来ていた。鴻池も絹から手がかりを得るため長期戦を覚悟している。これらのことは惣左衛門にも電話で伝えていた。あれ以来、久子とたまには何の異常も見られず、いわば小康状態を保っているとのことだった。惣左衛門も年末のため何かと忙しいのか、年が明けたら屋敷で会おうということになった。また、時間があれば鬼女が海の方向に走っていったということを頼りに、方々の海岸地域を歩いたり土地の者にその消息を聴いたりもした。鬼見通りという名称ができたように、それに似た名称や言い伝えがあるかもしれないと考えたからである。しかし、今のところ徒労に終わっていた。
北国の冬の海は寒く厳しい。鴻池は粉雪が舞う荒れる海を見るたびに、磐乃は何処に行き、何処で死んだのか。また、騒動の原因を作った羽倉波次郎は何処に行ったのか、今も生きているのか、すでに死んだのか、と心の中で幾度も叫んだ。その度に冷たい風が鴻池の身体に向かって音を立てて応えてきた。こうして師走も過ぎ行き年が明けた。
田宮惣左衛門の家は喪中である為、正月が無い。ひっそりと新しい年を迎えた。妻の菊江は実家に帰ったままだ。周りが賑やかで気が紛れるのか、いくらかはいいようだ。女中のふきは正月の行事もないこともあって、実家で正月を迎えるため帰郷していた。いま広い屋敷にいるのは惣左衛門と久子、乳母の登美、それと作男の弥八の四人だけだった。
「たった四人か…」 惣左衛門は応接間のソファーに座ったまま天井を見上げながら、呟いた。大勢の人間が居て、あれほど賑やかで騒々しいほどだった去年の正月が嘘のようである。嘗てないことであった。覚悟は出来ていたはずだが、実際その時、その場になってみると、身に堪えた。今更ながら、失った二人の息子のことが思い出され、慚愧に堪えなかった。息子たちが悪戯をする都度叱りつけていた惣左衛門であったが、もう一度悪戯をして欲しかった、いっぱいして欲しかった。そう思いながら涙が溢れでてきた。         「武彦、龍彦…」 惣左衛門が涙ながらに呟くと、二人の姿が消えていき、周りの馴染みの顔も次々に消えていった。いま屋敷に残っている者だけになった。
何もする気にならずぼんやりと過ごしていると、昼過ぎに鴻池庄太郎がやって来た。昨年の秋に調査の依頼をしてから、まだ三、四ヵ月の付き合いだというのに、旧知の間柄のような感覚を覚えた。気が弱っているせいなのかとも思えたが、そうでもないようだった。飄々とした印象を人に与えるが、性格の根っこのところもそのままだと感じていた。事業を展開させている自分には色々な人間が近づいてくる。ほとんどは金銭が絡む打算のためだ。それは生きていく為には仕方のないことだと考えている。自分もそうしてきた。だが息子を立て続けに失った今、別なものを求め見始めている自分がいる、そう感じているのも事実であった。彼とは別な世界に住む間柄ではあるが、馬が合いそうだと思った。
「どうだい、酒を呑みながら話さないかい」 「はあ、かまいませんが」
惣左衛門は自ら酒の支度をするために台所に立ち、ガサゴソと音を立てていると登美が飛んできた。鴻池君と酒を呑むと言うと、私がしますと言われて、追いやられてしまった。
少し経って登美が幾本かの銚子と肴をお盆に乗せてやってきた時、「弥八にも酒を呑ませてやって」という惣左衛門を見て、この人は変わりつつある、と鴻池は感じた。


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