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作品名:深窓の令描 作者:じゅんしろう

第3回   3
ふと、何故あれほど安かったのであろう、と惣左衛門は今になって疑問を覚えた。売主はこの小樽で今を時めく、呉服商から事業を拡大発展させている新井巻衛門であった。惣左衛門も豪傑そのものといった自信満々の顔は見知っていた。高田は、売主に火急の金策が生じたため、と言っただけだったが、それにしても、と、また思った。相場の四分の三程度だったのである。聞いてみなければどこも内情はわからぬものだと思ったが、当時は、勢いに乗っている人間には天も見方をするものだ、位にしか思わなかった。だが、そのことを尋ねたとき、高田はわずかに狼狽えていた様に思えぬでもない。惣左衛門はある疑惑が頭をよぎり、盃の酒を、ぐびり、と呑んだ。
一週間ほど後、惣左衛門は高田を小樽駅近くにある稲穂町の会社に呼んだ。その高田は、昼過ぎにようやく小太りの身体を、秋も中頃というのに額に汗を浮かべて事務所に表した。
高田は応接室のソファーに座ると、六十歳過ぎの皺が深く刻み込まれた額に浮き出た汗をハンカチで拭い、神妙な顔つきで、「あらためて御子息様のたびかさなるご不幸、お悔やみ申し上げます」と言った。寺での葬儀の時、高田が参列していたのを惣左衛門は覚えていたが、言葉を交わしてはいなかった。惣左衛門は今考えれば、移り住んだ後、高田は一度も屋敷を訪れることもなかった。葬儀の時もそそくさと帰ったように思われぬでもない。だが、それに対し軽く頷いただけでしばしの間、沈黙した。高田は惣左衛門の目を避けるかのように、俯いた。惣左衛門はその高田を、さりげなさを装いながら目の底で注意深く見た。だが、目の前の高田は、実直な老人そのものであった。
「ところで、高田さん。我が社は海運事業を本州の方にも手を広げようという計画を立てているのだが、ついては空き倉庫の物件を聞きたい」と、惣左衛門は努めて穏やかな口調で話を切り出した。実際、前々からの懸案であった。
そのとき高田は、ほっとしたように安堵の表情を見せながら顔を上げたのを見て、此奴、屋敷のことで何かを隠しているな、と惣左衛門は直感した。
高田は即座に、諳んじているいくつかの物件を言った。
「売値は?」 惣左衛門はたくわえている口髭を右の人差し指でなぞりながら尋ねたが、これは思案している時の癖であった。
高田は持参してきた鞄の中から、何枚かの書類を取り出すと、それぞれの値段を言った。それらは、惣左衛門も承知している相場である。
やはり、家宅と倉庫の違いはあるが、今の屋敷の安さは吐出していると思った。
「まあ、そのぐらいはするでしょうなあ。それらの中で、こちらの希望と合致するものがあるか検討してみましょう。それにしても、これらと比べれば、二年前に購入した屋敷は買い得でしたなあ」と、惣左衛門は渡された書類に目を通しながら言い、高田を上目遣いで見た。


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