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作品名:深窓の令描 作者:じゅんしろう

第29回   29
玄関口を入ってすぐ横が六畳の和室で、石炭ストーブの上にヤカンが湯気を立てていて暖かい。ちゃぶ台のそばに座るなり、「亭主に死なれてから、地方に一人息子がいるのだが、その仕送りで細々と暮らしている有様でね」とお民婆さんが言いだした。
「旦那さんがすでに亡くなられているのですか、それはお気の毒のことです。これも何かの縁でしょうからお焼香をさせてください」と言いながら、鴻池は上着の内ポケットから財布を取り出し、幾許かの札をちり紙に包むのを横目に見て、「そうかい、それは済まないねえ。亡くなった亭主も喜ぶだろう」とお民婆さんはにこにこ顔である。となりの部屋にある小さな仏壇に焼香を済まし戻ると、「何でも聞いとくれ」とお民婆さんは番茶を入れてくれたりして協力的だ。
以前ボヤ騒ぎのあった家に梅奴が住み始めたのは明治四十年頃からであるという。お民婆さんは挨拶回りに来た梅奴を一目見て、直ぐに芸者上がりのお妾さんだと分かったと言った。どんなに隠そうとしても、ちょっとした仕草や話し方で、それが現れるのだという。随分詳しいのですね、と訊く鴻池に対して、この辺り、囲うにはあつらえ向きだからね、とお民婆さんはにたりと笑った。先ほど鴻池に特に理由を尋ねなかったのは、以前にも別な興信所絡みの事があったのであろう。
「美しい方でしたか?」との問いに、「いいや、それほどでもなかったよ。ただ、愛嬌があって気さくな人だった。梅奴、いえ、わたしゃ、お梅ちゃんと呼んでいたのだけれど。それよりも通ってくる男は、役者みたいに惚れ惚れするようなえらい二枚目だったね」とお民婆さんは当時を思い出したのか溜息まじりで言った。
鴻池は梅奴がさほどの美人でもなかったということに、興味を持った。波次郎の妻磐乃は賢く聡明な美人だったと言われている。更に波次郎は、多くの美女に囲まれていたと言ってよい。波次郎が梅奴に何を求めていたのかが分かるような気がした。男には、ほっと一息つける場が欲しいのである。自分をさらけ出す気の置けない相手が必要なのだ。あるいは波次郎にとって、磐乃は自分が求める理想の妻ではなかったのかもしれない。
「そうそう、二人の間には波夫と言う可愛い男の子がいてね。梅奴さんがここに来たときはすでに腹ボッケで、坊やが生まれてからはその人、足繁く通ってきたよ。時折外まであやす声や笑い声が聞こえてきたりして、よほど可愛がっていたようだよ」
「男の子がいたのか…」 これまでのほうぼうから聞いてきた話だけの波次郎像から、別な一面を知って身近に感じる人物像が浮かび上がってきた。 
「その後、三人はどうなったのです」と、鴻池はとぼけて更に訊いた。
 「それがねえ。いつのことだったか忘れてしまったけれど、そうそう秋も終わりの或る日のことさ。あの家から女の大きな悲鳴が聞こえてきてね、何事かと思い外に出たら、家から飛び出していく和服を着た女の後ろ姿を見たのさ。いえ、顔は見ちゃいないがね。後を追おうとして玄関先に表れた二枚目の男の顔が真っ青だったね。この下の信香町の通りに鬼見通りと呼ばれているのが在るのだけれど、その時の女のことさ。鬼女の形相をしていたからそう呼ばれるようになったのさ。それからがいけなかったよ」と、そこまでいうとお民婆さんは冷えてしまった番茶を、ずずずっと啜り一息を入れた。


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