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作品名:深窓の令描 作者:じゅんしろう

第27回   27
「ああ、鬼見通りの近くだ」 「ううん?おにみどおり、何だ、それ」
「ああ、通称だけれど、いつの頃からかそう呼ばれている」
「どういう訳で、そう呼ばれるようになったのだ」 鴻池は胸騒ぎを覚えた。
「俺もよく分からんが、なんでも明治の終わりごろ、鬼のような形相の女がその通りを駆け抜けて行き、その後、あの辺りの連中が言いだしたらしい。おおかた気違い女だろうさ」 板橋はどうでもよさそうに言い、更に酒を呑むと、熱々のふろふき大根を口でふうふう冷ましながら食べだした。
鴻池は、自分でも顔色が変わっていくのが分かった。その女こそ磐乃ではないだろうかと直感が働いたからである。ついに手掛かりを得ることができるかもしれないと思うと、少なからず興奮を覚えた。直ぐにでも店を出て調べに行きたいと思ったほどだ。
板橋はそのような鴻池に頓着せず、「この間、暫くぶりで一直線に会ったぞ」と言った。
「おお、そうか、懐かしい名前だな」 鴻池もすぐに調子を合わせ破顔した。
一直線とは小樽高等商業学校時代の恩師、高瀬という古文と倫理の教授の渾名である。高瀬は授業が終わり学校を退けるとき、地獄坂という名の通りを決して振り返ることなく一直線に下っていく姿を、学生が面白がって付けたのである。今は退官していて、悠々自適の生活を送っている。 「だいぶ老けていたよ。まあ、我々も紅顔の美少年から、いまや腹の出ぐあいが気になる中年男になっちまったから仕方がないがね、はっ、はっ、はっ」と、板橋は声を上げて笑った。
翌朝、小雪がちらついている寒い中を、鴻池は板橋から聞いた鬼見通りを探すため若松町の勝納川周辺を歩き回っていた。通称であるから、標識があるわけではない。探し当てるのに何人かに尋ねなければならなかった。それは信香町という一角の或る静かな通りであった。信香町というのは小樽が栄え始めたときは金雲町といい、最初の遊郭街が出来たところでもある。それが小樽の発展とともに、風紀上よろしくないということで住ノ江町町に移り、今は小樽の主ともいえる天狗山の麓の松ヶ枝町に移転した。もう一つの遊郭街は、市街地の北側で梅ケ枝町というところにある。松ヶ枝町は南楼と呼ばれ、梅ケ枝町は北楼と呼ばれている。明治の終わりならば、すでに信香町に遊郭は無い。鬼見通りの詳しい由来を聞き出そうと思い、少し離れた所に煙草屋があったのでしんせいを買い、そこの店番のお婆さんに尋ねてみた。鴻池は指で示しながら、「あの通りのことを鬼見通りと聞いたのだけれども、どういう訳なのです」と訊くと、「ああ、あそこはね、わちがまだ歳若い頃、綺麗なおなごが髪を振り乱しながら凄い顔をして走って鬼女のようだったから、そう名付けられたのじゃ。そうそう、手宮裡町の大火のあった年だから、明治四十四年の秋じゃった。もっとも、わちは見てはいないがの。そうだ、連れ合いの爺さんなら見ている」と自分の歳を少々鯖を読みながら言い、家の奥にいた爺さんを呼んでくれた。その爺さんの話によると、和服姿の三十歳代と思われる女が服を乱しながら気違いのような血眼の恐ろしい形相で、若松町から海の方へ駆け抜けて行った、と言った。それを見た誰もが呆然として見送っただけだと言い、まともな状態なら色白のえらい別嬪だろうとも付け加えた。鴻池は礼をいうと、またその通りに戻り立ってみた。若松町から海側の方角を見た時、鴻池に閃くものがあった。


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