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作品名:深窓の令描 作者:じゅんしろう

第23回   23
「ノウボ・バギャバティ・タレイロキャ・ハラチビシシュ・ボウダヤ…」
鴻池はつるという霊媒師と関わりがある以上、ある程度の知識は持っている。それは密教における陀羅尼(呪文)であった。
惣左衛門も何かの呪文らしいと気がつき、二人が思わず顔を見合わせたとき、突然、「あ、あっ!」という女の悲鳴が聞こえた。二人はすぐに久子の部屋に向かった。
部屋の障子の襖を開け、二人が中の情景を目にした瞬間、呆然となった。つるはまるで放り投げられたかのように隅の壁に上半身を預け、目を閉じ、首を項垂れていた。そして久子は顔の表情は見えなかったが、つるに向かって仁王立ちになっていたのである。その脇でたまが座っていて、つるを見ているかのようだ。有り得ない光景だった。
「久子!」 惣左衛門が思わず叫ぶと、途端に久子はその場で崩れるように倒れ込んだ。惣左衛門が慌てて近寄り久子を抱きかかえ顔を見ると、いつも見るぼんやりとした表情であった。鴻池も顔面蒼白の、つるの肩を両手で揺さぶり声を掛け続けると、しばらくして気がつき目を開けた。
「つるさん、どうしたのです、いったい何があったのです」との鴻池の問いかけにも、すぐには答えることができないようで、唇を震わせ続けていた。
十分後、惣左衛門は久子の部屋に登美と念のため弥八も居させて、部屋で起こった事情は話さず、何かあればすぐに知らせるように言いつけ、三人は応接間に戻っていた。
つるは熱いお茶を飲むと、ようやく人心地がついたのか顔にいくらか生気が戻ったようで、先ほどの顛末を吶々と語り始めた。
「あの部屋に入ったときは、特に何かを感じることはありませんでした。黒猫も変わった様子は見受けられません。鴻池さんにあらかじめお話しを聞いていなければ、何もしなかったでしょう。そこで、陀羅尼を唱え始めました。目を瞑り、ずっと唱え続けました。そうするとだんだん霊気が感じられ始めました。なおも唱え続けていきますと,霊気が強まってきました。これは霊魂が陀羅尼を嫌がつているのです。さらに唱えました。するとその霊気は私自身を包み込み出しました。陀羅尼を止めさせようとしているのです。私も負けまいと更に唱えました。だけれども、私が今までに経験したことのない非常に強い霊魂です。全身が強い霊気で覆われそうになって、暗く深い淵に引きずり込まれていきそうな感覚に、恐怖に耐えられなくなり目を開けてしまったのです。そのとき私は怒り狂った女の顔をはっきりと見ました。途端に強い衝撃を受け、気を失ったのです。このような体験は初めてです。未熟者で申し訳ありません」と話し終えると、つるは頭を下げた。
つるの話を聞き終えた惣左衛門と鴻池はしばらく言葉がなかった。惣左衛門は、つるがいい加減なことを言っていないことは、現に久子の仁王立ちの姿を目にしたことで理解していた。娘のあのような姿を目にしたことは 未だ嘗てなかったことだからである。鴻池もまた然りであった。以前にも何度か、つるの不思議な能力を目の当たりにしていた。そのつるでも手に負えないのかと頭を抱えたくなる思いであった。


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