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作品名:深窓の令描 作者:じゅんしろう

第19回   19
翌日、鴻池と三島里枝は連れ立って、小樽に六つ有る見番のうちで花園町の妙見河畔にある妙見川見番を訪問していた。女将は内海静江といい七十歳近い年齢のように思われたが、現役の置屋の女将だけあって和服をきりりと着こなし、しゃきっとした印象を人に与えた。有閑マダム風の里枝でさえ、大先輩にあたるためか終始畏まっていたほどだ。だが存外話し好きで、里枝から前もって用向きを聞いていたこともあり明治期の花柳界のことを親切に教えてくれた。無論、贔屓筋の暴露話はない。日露戦争後の南樺太の領土画定会議は小樽の日本郵船小樽支店でおこなわれ、その後の小村寿太郎外相も出席した海陽亭での大宴会は今でも語り草で、女将も呼ばれていたこともあり、熱を帯びた話しぶりだった。鴻池が聞きたいのはそのようなことではなかったが、辛抱強く聴き続けた。ようやく女将の話が一段落した頃を見はからって、軽い話の話題ということで、女将が知っている客の中で一番の美男子は誰かということに転じた。すると、幾人かの歌舞伎俳優や映画俳優の名を挙げた。里枝はその度に、「えーっ、その方も小樽にいらしていたの、会いたかったわ」と大仰な声を出した。たしかに思わぬ人物が小樽に来てはいたが、鴻池の目指す名前ではない。
「どこかで、羽倉波次郎という名を小耳に挟んだことがあるのですが」と鴻池が焦れて水を向けてみると、「羽倉波次郎!あんな奴、男の風上にも置けない性悪男よ」と女将は途端に顔色を変え不機嫌な言い方で、切って捨てたのである。女将は羽倉波次郎のことを知っていた。詳しく聞きたかったのであるが、ひどい剣幕で塩でも撒かれかねない様子に、鴻池は置屋をあわてて辞さねばならなかったほどだ。
「羽倉波次郎って誰よ?」 二人が三味線の師匠をしている元芸妓のところに向かう道すがら、咎め口調で訊いてきた。 「いや、明治の小樽花柳界において、誰かに客の中で一番の美男子だったと聞いたことがありましてね。今の花柳界でも知っている人がいるかどうか、なんとなく口にしただけです」 
「本当?唯それだけなの」 「本当ですよ、深い意味はありません」
「そう。でもあの女将、波次郎とかいう人とかなり訳ありね、普通ではなかったわ」
鴻池もそのことは十分承知しているが、自分が焦れた為にどういう関係だったかということを、あの女将から聞き出すすべを無くしたことに苦慮しているのである。
三味線の師匠は入船町の山の手側にある静かな一角に住んでいて網島鈴江といい、六十歳代半ばのようだ。こちらの方は里枝もよほど親しくしているようで、姐さん姐さんで、くだけた口調であった。鈴江も里枝と親しいこともあり丁寧に教えてくれたが、まるで三味線を爪弾くように勘所を押さえたような巧みな話し方で、つい引き込まれていった。だが、鴻池が知りたいのは羽倉波次郎のことである。しかし、先ほどの置屋の女将のようになっては元も子もない。じりじりしていると、「ところで姐さん、羽倉波次郎という方をご存知ですか?」と里枝の方が切り出してくれた。美男子には里枝も興味津々なのだろう。里枝の唐突な質問に鈴江も一瞬言葉を呑んだ。鴻池は、まずい、と目を瞑りかけたが、鈴江は懐かしげに表情を緩めた。


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