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作品名:深窓の令描 作者:じゅんしろう

第14回   14
「たまは古平で飼われていたことがあるのですか」
「いえ、無いと聞いています。それで、磐乃さんに何かがあったに違いないと大騒ぎになりましてね」 鴻池は微かに身体が震えてくるのが分かった。猫がたった一匹で、福右衛門目指して見ず知らずの土地に来ることは有り得ないからである。余程のことがあったに違いない、人知を超えたものが働いたとしか思えなかった。自分がこれから調べようとしていることに、漠然たるものであるが、言い知れぬ恐怖さえ覚えてきた。
本来の鴻池ならば、女学校時代の磐乃の写真があれば見せて欲しい、と押していくところであるが、これ以上探ることは止め寺を辞すと、重い気持ちで今夜の宿に向かった。だが、羽倉家がなぜ没落したのかということも調べなければならない。不吉な予感がしたが、もはや後戻りをすることは出来なかった。
宿は銀河旅館という大層な名前の古い木賃宿である。客は漁具販売員や水産加工業者など漁業関係者が何組か有り、旅行者は鴻池一人だけだった。土地のことを調べる場合、こういった宿の方が都合よい場合が多いのだ。部屋は二階の六畳一間で海に面していた。案内してくれた年増の中居に素早く金を握らせると、頬にえくぼを作って愛想笑いをした。仕事で来る泊まり客は、このようなことをすることはめったにない、と言った。聞けば、この旅館の親戚で客のあるとき手伝いに来るのだという。福右衛門が死んだのは今から二十年余り前であるから、この仲居は当然知っているだろう、あるいは羽倉家の没落していった事情もある程度はあちこちから聞き及んでいるに違いない、と鴻池は踏んでいる。なんとか聞き出したいと思っていた。
一人になり、窓から暮れかかっていく海を見た。遠くうっすらと霞むように対岸に見えるのは、石狩湾を隔てた増毛連山だ。たまにとって、小樽から古平までの距離は、あれより遥かに遠い道程だったろうと考えると、不可思議なことというよりも、身体の中を風が吹き抜けるような切ない気持ちになっていった。
夕食の給仕には先ほどの仲居が来た。心づけが利いたのかとても愛想がよく、何くれとなく鴻池の世話を焼いた。どこかの部屋から、「光ちゃん、何処さいった」などと、馴染み客から声が掛かってくる。 「はい、はい、うるさいねえ」といっては腰を上げるが、すぐに戻って来てくれるという調子だった。名前は光子といい、一度結婚したが亭主と死に別れていて、今は独身ということもあり、話し好きでもありなかなかの人気者のようだ。
その合間、合間に、鴻池は昼間の禅源寺のことでの磐乃のことや猫のたまの話をしたが、仲居にとっては先刻ご承知、のことばかりだった。
「じつに不思議なことで、興味津々といったところです。話の種に、もう少し聞きたいのだが、どうだろう、お礼をするから、後で聞かせてもらえないだろうか」
「お客さん、どういった方で?」 仲居は初めて警戒する目つきになったが、「じつはこれでも作家志望でね、創作意欲が大いに湧いてきたのだよ」との鴻池の嘘にも、「ひやあ、作家さんかね」と、好意の目つきに変わった。このような時、鴻池の飄々とした親しみやすい印象が長所となる。また仲居の、誰かに話をしたくてうずうずしているのも、見て取れた。結局、仕事が終わったら、来てくれるという約束を取り付けることができた。


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