これは、古平の大網元である種田富太郎が、大正八年千島列島での漁の帰り、利尻島沖で大シケにあい、二昼夜漂流した後ロシア船に救助されて、九死に一生を得るということがあった。そこで寄進を発願して、札幌の中学校で美術教師をしていた林竹次郎なるものに制作を依頼した。完成させるのに大正九年から昭和十四年のじつに二十年間を要したということである。その費用は五万円(今の五億円相当)ということだ。油彩画にしたのは維持が容易とのことであるが、面白いのは林竹次郎が敬虔なるクリスチャンであるということだ。鴻池が一年前に新聞記事でこれを読んだとき、宗教上の妙に面白さを感じたものである。また、禅源寺は羽倉家の菩提寺でもあった。 当り障りのない世間話をしていて口が滑らかになった頃、鴻池は何気なく、「そういえば、以前小樽の東雲町に古平出身で羽倉さんという方の大きなお屋敷があったなあ」 「ああ、磐乃お嬢様のお屋敷だな。といってもわしが若え頃の話だがな」 「なんでも、綺麗な人らしいですね」 「うんだ、わしもいっぺんだけ見たことがある。そりやあ、子供心にも別嬪だなあ、と思ったもんだ」 「古平で?」 「そうだ。あれだけの網元のお嬢様だったから、外に出るのは滅多にないからな」 「そうか、そりやあ大層なものだったのだね。今はどうしているのかね」 「亡くなったそうだ。それに本家もあんなことになったからな」 「あんなことって?」 「えっ、いやあ、知らね、わしは知らね」 馭者は喋りすぎたと思ったのか、慌てて口を噤んだ。鴻池もこれ以上追求するのは警戒されると思い、古平の女はどうか、というように巧みに話題を転じた。探偵は、焦りは禁物である。 禅源寺は町の中心近くにあった。だが、安政五年に開基されていてこの町では一番古く、静観な寺であった。参拝者は誰もおらず訪いを問うと、品の良い老婦人が現れた。住職の母親だという。住職は法事で留守とのことだ。 「五百羅漢図を拝観させてもらいに来ました」 「それは御奇特なことでございます」 住職の御母堂の案内で、本堂と観音堂に飾られている五百羅漢図を観たが、拝観者は鴻池一人であった。五人ずつの大額が五枚、一人額が四百七十五枚という労作である。 「何故、洋画なのでしょうか」 「はい、仏像は傷みやすく、日本画は管理が大変とかで、永く残すために洋画にしたと聞いております」 「ほう、強い思いがあったのですね」 「種田さんが遭難された時、ひたすら観音菩薩を念じたということです。人間の生きたいという思いは、それは強いものでございますよ」 そのとき鴻池は、人間の強い思いというものは生きているときは無論、死んだ後も残るのではないかと考えるに至った。この世に漂い彷徨い続けている魂があると考え、なんとなく顔も知らない磐乃を思い浮かべた。いつたい磐乃に何があったというのか。
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