U 妻の亡くなった後は、趣味の囲碁に打ち込むでもなく、ドライブでどこかに出かけるでもなく、ただなんとなく生きているというような日々が続いた。 青葉が小樽を引き払って東京に来ないか、と言ってくれたが断り、会社からは再度嘱託の仕事をしないかという要請も、やはり断った。 朝は遅くに起き、昼食を兼ねた簡単な食事を作って食べた。それから散歩や読書というだけの無為な日々を過ごしていた。 妻との三十有余年の永い生活がこれほど心身を支配しているとは思わなかった。 生きていく思いが気薄になり、半身が失われたようだった。 以前、ハリウッドで活躍していたフランス出身のシャルル・ボアイエという老名優が、癌を患い亡くなった妻の葬儀の二日後、哀しみと寂しさに耐えかねて睡眠薬自殺をしたことを思い出した。日本でコメデイタッチのテレビドラマが放映されたこともあり、軽妙洒脱な演技に親しみを覚えたものであるが、妻あっての彼であったのかと思った。夜、独り部屋にいるとそのようなことをぼんやりと考えることが多々あった。以前は妻が作ってくれた手料理を肴に、晩酌を欠かしたことはなかったが、今は近くのスーパーで惣菜を買い求め呑むが、美味いと思うことはなくなっていた。 一周忌のとき、青葉たち家族が来てくれ、あらためて東京で暮らさないかと誘われたが、妻の墓守をしたいと言ったら、後は何も言わなかった。 冬が過ぎ春になった頃から、胃になにか変調を覚えるようになった。初めのころは胃薬を服用すると治まっていたので、自堕落な生活を送っているからかな、と自嘲していたがそのうちに薬の効き目が薄くなってきた。 ましや、妻と同じ胃癌ではないのか、と疑ったが直ぐには病院に行くことはなかった。 半分、癌になったらなったで、それもいいか、とも思っていたのである。 しかし、身体の変調が顕著になり、食事や酒を呑むことに差しさわりが出てくると、意気地がなくなって最近開院した近くの内科医院に駆け込んだ。 渡部医院といって最新の設備があるという。そのときには、妻と同じ癌になったらそれも仕方がない、と嘯いていた気持ちは何処かにいっていた。 今、私が癌になったら一人娘の青葉が悲しむだろうとか、残りの人生をどう過ごすべきか考え直してみようとか、自分に言い訳をしたりした。われながら情けないと思ったが、いざ、自分のこととなると分からないものである。 決死の思いで病院に入っていった。妻の体験から、いろいろな検査をし、とくに胃カメラを呑まされたり、二リットルものなにか訳の分からないものを飲まされたりして散々な目にあうと予想していたが。だが、血液検査やレントゲン、エコー検査など比較的やさしい検査で済んだ。 その結果はストレス性胃炎であった。通院と投薬でよいという。ほっとしたと同時に力が抜けた。私は診察料の支払いの為、ぼんやりと待合室の長椅子に座っていた。亡くなった妻に笑われるなと思った。と、「わあー、きれい、神威岬ね」という女の声が聞こえた。振り向くと、それは玄関の正面に飾られてあるパネル写真を見ている若い女のものだった。
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