20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:神威岬 作者:じゅんしろう

第2回   2
 定年は間近に迫っていたので、妻に悟らせないため、いったん定年退職し、嘱託の件は会社に話して蓉子が退院するまで延ばしてもらうことにした、と言っておいた。実際には嘱託の件は止めた。
 結婚して東京に住んでいる一人娘の青葉に電話で知らせると、三歳になる孫娘のかおりを連れて飛んで来た。
 病院で面会したときはまだ妻の顔立ちもふっくらとしていたので、青葉は気丈にふるまっていたが、自宅に帰ってきて食事の支度をしているとき、台所でふいに泣き崩れた。居間にいた私は泣き声で台所にいくと、かおりは母親がしゃがんで泣いているのに驚いたのか、訳も分からず抱きついて、一緒に泣いていた。私はどうすることもできず、ダイニングテーブルの椅子に腰掛けて両手で頭をかかえた。
 青葉はこのまま小樽の家に留まるという。妻に気づかれたくないから、東京の生活のこともあるだろうから、いったん東京に帰ったらどうかと言うと、このまま残って母親の世話をする、と強い口調で言った。私は、そうか、と弱くつぶやくだけだった。
 妻は青葉たちがこのまましばらく小樽に留まるという、というのを初めは訝しんだのだが、かおりに涼しい北海道の夏を味あわせてあげたい、という青葉の言葉と、孫娘に毎日のように会えるということが嬉しかったのか、黙ってうなずいて何も言わなかった。
 青葉たちは毎日病院に見舞いに行った。妻は青葉が幼いときに読み聞かせた童話を、自宅に閉まってあった古い本の何冊かを持ってこさせて、かおりに毎日一話ずつ読み聞かせた。
 しかし、妻は日に日に痩せ細っていった。北海道の夏は涼しいとはいえ、クーラーのない病院の暑さは身体にこたえているようだった。
 お盆休みに、婿の桂木修一が来た。名前のとおり長男で一人息子だったので、青葉を手放すしかなかった。長身で彫りの深い顔立ちをしていてなかなか渋い男前だった。青葉はどちらかといえば妻に似て、色白でふっくらとしていて可愛らしい目をしている。似合いの夫婦といえるだろう。
 このころには医師からは、当人の希望があれば意に添うようにしてください、と言われていたので、一時退院をして、お盆を自宅で迎えた。
 妻の墓参りへの体力は危ぶまれたが、どうしても行きたいというので連れて行った。
 墓所は町を見渡すように座っている天狗山の麓にある。墓は山を削った中腹にあり、時間を掛けて少しずつ上った。
 このころには、妻は自分の命が幾ばくも無いことに気づいているようだった。しかし、私にも青葉にも訊くことはなかった。いつの頃からか静かに死を迎えることを受け入れているように思えた。身体的にはずいぶんときつい筈だが何も言わず、私の手に引かれていた。ようやく墓の前につくと、私は黙って手拭で妻の顔や腕の汗を拭いてやった。妻は細い声で、ありがとう、と言った。
 妻は長い間、墓に手を合わせて祈っていた。墓には私の父や母が眠っている。妻はもう少したったら自分も入ることを報告しているのだろうかと思った。この墓に入ることに、異を唱えることもなく、私にはありがたいことだと思った。いつのまにか、私も妻の死ということを受け入れる心の準備ができているのかと、あらためて自分に問いかける思いをいだいた。哀しい問いかけだった。目頭が熱くなった。
 木々が紅く染まる頃、妻は亡くなった。


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 3831