私はまた考えた。 ―私は信仰を持ってはいない。月に一度、寺から坊主が経をあげにくるが、仏教徒というわけではない。親代々の流れのなかにいるだけである。蓉子によって信仰に導かれたのであろうか。そうとも思われない。人知を越えたものがある、とはよく聞くところだが、この私がいままでの人生を顧みて、霊的能力が備わっている人間だとはとても思えなかった。しかし、そのような体験をしたことは事実として認めざるをえない。妻が亡くなってから自堕落な生活を送ってきた。ときおり、軽いのりで死ということを考えたりすることに対して、しつかりと残りの人生を生きろという、強い叱責かも知れない。これからの生活を今一度考え直さなければならないのは確かなことだろう。 そこまで考えて、残りのコーヒーを飲んだ。すでに冷めていたので、もう一杯注文しょうと顔をあげると、客は私だけになっていた。外はすっかり暗闇だった。もう、店仕舞いの時間かもしれないと思い、出ることにした。 勘定を済ませて店を出ると、横側から、かわいいー、と聞き覚えのある若い女の声がした。なんだろう、また北ギツネでも現われたのかと思い、声の方に行ってみた。 見るとさきほどの二人連れが柵の前に立って何かを見ていた。近づいてみると、産まれて一、二ヶ月ほどの子犬が二匹、盛んにじゃれあっていた。少し離れて母犬がその様子を眺めるようにして座り込んでいた。子犬は店の横窓の明かりから、茶色の毛並みなのが分かった。柵には、子犬さしあげます、という小さな看板が掛かっていた。 「ねぇ、ねえ、この牡の子犬を飼おうよぉ」女は甘えるようにして男の腕を掴んで言った。 「駄目だよ、アパートじゃどうしようもないよ」 「大家さんに頼んでさあ。部屋は一階なのだからなんとかなるよ」 「アパートに入居するとき、犬、猫は駄目だと念を押されただろう」 「でもぅ…」 若い二人の会話を聞きながら子犬を見ていると、一匹の方がふいに私を見た。 あつ、と私は心の中で驚きの声を発した。その顔の表情は以前飼っていたケンタローの子犬のときとそっくりだったのである。ケンタローの眼の周りは、身体全体の茶色よりやや濃く鼻は黒かった。瓜ふたつだった。私はおもわす柵の中に手を差し入れると、その子犬はすぐに近づいてきて、私の手をペロペロと舐めはじめた。
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