20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:父の故郷にて 作者:じゅんしろう

第16回   16
翌日、早めに起きた。作蔵さん夫婦が農作業に出る前に、お礼を言いたかったからである。丁度、夫婦が庭に出ていたところだったので、僕も外に出て、二晩も泊めてもてなしてくれたお礼を言い、頭を下げた。作蔵さんは照れ笑いをしたが、僕の気持ちを察してくれたのだろう、また、来なさい、と言ってくれた。母と同姓同名の奥さんは、「おだぐ様のお母様とね」と言って笑った。僕はまた頭を下げた。
勤めに出て行く麗子さんにお礼を言って見送り、與七さんが農作業に出て行く時に、またお礼を言って見送った。與七さんは、「またこの米ば食べにおいで」と言ってくれた。與七さんご家族の朴訥で飾りのない言葉に、僕は泣きそうになった。
家の中は僕とおばあさんの二人になった。相沢さんの息子さんが迎えに来ることは、昨夜のうちに伝えてある。その約束の時まで間があったので、最後と思い、仙入院に行った。
行くと縁側に庵主さんが一人座っていた。僕が前に立ち言葉を掛け、頭を下げると、挨拶こそ返さなかったが、僕をじつと見た。一昨日のときと違い、今日は明らかに僕をみとめていた。そこへ尼僧が皿に柿を載せて来た。僕が、お別れの挨拶に来ました、と言うと、尼僧はにっこりと微笑み、「丁度、今日は庵主さまもご気分がええようで」と言った。そして、庵主さんの耳もとに口を寄せ大きな声で、「喜作衛門さまのお孫さまだず」だがと言った。と、庵主さんは一瞬、表情が変わったように見えた。そして、遠い昔を思い出しているような目をし、ほんのわずか微笑んだように見えた。僕は、祖父のことを思い出してくれたのかと、嬉しくなったが、庵主さんの反応はそこまでで、またぼんやりと前を見ているだけだった。
尼僧がナイフで柿を剥いて、庵主さんに差し出すと、それをむしゃむしゃ食べた。さらに、もっと食べたそうに柿を見た。僕も記念にと思い、剥いてあげたいと申し出ると、尼僧は、「喜作衛門さまのお孫さまが柿を剥いてくださるそうだず」とまた耳もとで大きな声をだした。また、喜作衛門という言葉にかすかに反応したようだった。僕が、ナイフを持ち、柿を剥こうとしたときだった。陽が庭に差し込んできて、ナイフがきらりと光った。途端に、庵主さんが悲鳴を上げ、「喜作衛門さま、出刃包丁で死んだら駄目だず、死んだら駄目だず」と声を発し両手で顔を覆って震えた。僕は一瞬で、その全てを理解した。尼僧はおろおろとするばかりだったので、僕は、寝室で休ませましょうと言い、二人で連れて行った。庵主さんは、床に寝かしつけてもしばらくは、喜作衛門さま、喜作衛門さまと、うわごとのように繰り返した。僕はそれを黙って見ていたが、祖父の亡くなった真相を知り、涙が溢れでてくるのを抑えられなかった。祖父は単に、失意の中で亡くなったのではなかったのだ。追いつめられ、出刃包丁で自殺したのだ。その時、この小さな集落が大騒動になったことは、容易に想像ができた。みんな、そのことに触れないようにしてくれたのは、僕への思いやりだったのだろう。父や叔父が土橋を追われるように出ていくはずだ、と思い、さらにその無念さを思った。


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 4636