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作品名:蕗の薹 作者:じゅんしろう

第9回   9
二人は、手を合わせ部屋の何カ所かに清めの塩を撒き、マスクをして作業に取り掛かった。作業方法は心得ているので、ほとんど言葉を交わすことなく、黙々と後片付けをした。哲学書や文学書など難しい書籍がかなりあったので、男は相当のインテリらしかった。どのような事情で歯車が狂い、身を持ち崩したのかは分からぬが、人の人生は分からぬものであると、あらためて祐一郎自身に置き換えて思い、作業を続けた。ノート類を片付けている時だった。一枚の用紙がぱらりと落ちた。それを拾いビニール袋に入れようとしたとき、書かれている文字に目が釘付けになった。それには、何なのだ、という言葉が大きく斜めから乱暴に書きなぐられていた。そのノートを捲ってみると,幾枚も同じ文字が同様に綴られていた。祐一郎はすぐにその意味を理解した。現状の生活にずたずたに自尊心を傷けられたやり場のない怒りの叫びだと感じた。自殺した男の遺書なのだ。祐一郎は一つため息をつくと目を瞑り、それをビニール袋に入れた。
最後にそのフックを外し、畳もすべて剥がしてトラックに積み込んだ。自殺したその痕が残っている畳は使えない。部屋はがらんとして殺風景な景色になった。男の生活の跡は消えた。
作業を終えたとき、近くに住む六十歳代の家主夫婦が検分のために来た。
夫の方が部屋をぐるりと見渡すと、「やれやれこれですっきりとした。あの時は、警察の検分やら遺族への連絡やら何やらで、難儀したよ」と忌忌しそうにいった。一人住まいでの死亡は、不審死として警察の立ち合いがある。
「大変だったでしょう」と、立石が相槌をうつと、「ああ、首吊り死体と面と向かい合ったからね、その日はさすがに飯が食べられなかったよ。それに遺族からは滞っていた家賃も、この費用も貰えなかったからね」と、腹立ちそうにいった。死んだ男の親族は、別の街に住む従兄弟だけで、遺体の引き取りだけはしたが、滞納した家賃など費用の一切は拒否されたとのことであった。すると、「遺品の中で何か引き取れるものがあった?」と、その妻の方が立石に上目使いをして訊いてきた。遺品の中で綺麗な品物は、引き取り商品として支払いの対象になるからである。少しでも、遺品整理の費用を浮かせようとのことらしい。
「いや、とてもとても」と、立石は手を振って軽くあしらった。
祐一郎は、厭な夫婦だ、と思った。
その仕事を終えた後、時間はまだ早かったがそこで切り上げることになった。
「厭な夫婦だったね。和賀さんも風呂に入って、さっぱりしたほうがいいよ」といって、立石はいつもより割増しの金額を支払った。そのとき祐一郎は、立石も過去に相当の苦労をしてきたのだと感じ取った。
 家に帰ると、すぐ近くの銭湯に行き、時間をかけて身体を洗った。湯船に身体を浸し目を閉じて、先ほどの殺風景な部屋のことを考えた。顔の見えない男の姿がうかんできたが、すぐ祐一郎自身の顔になった。あわてて目を開け、そう、俺自身だ、と力なく呟いた。
部屋に帰り、時間はまだ早かったが、風呂上がりのビールを飲んだ。いつもより苦い味がして不味かった。遣りきれない、なんとも寂しい気持ちになり、そのまま、ぼんやりとなにもせず時間だけが過ぎていった。


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