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作品名:蕗の薹 作者:じゅんしろう

最終回   15
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退院した夜、祐一郎は久しぶりにスーパーマーケットに行った。女子高校生がいたのでそのレジに並ぶと、すぐ前に並んでいた某宅配便の制服を着ている体格のいい男と、ぼそぼそとした会話のやり取りをしていて、いつもの様子と違っていた。祐一郎の番になったとき女子高校生は、父です、といった。年頃の娘と父親とは一般的にこのようなものであろうが、父親代わりかも知れないという祐一郎の淡い期待は消えた。
「久しぶりですね、私は出番が後七回で終わりです」
「ほう、そうなると寂しくなるなあ」と、祐一郎が残念そうにいうと、女子高校生はにっこりと笑い、いつもの調子に戻った。女子高校生はこの時点ですでに卒業していて、実際には高校生ではない。だが、祐一郎にとっては今でも女子高校生である。彼女と係わりあえるのも、あと一か月足らずであった。
祐一郎は退院後、しばらくリサイクルショツプの仕事は断り、抗癌剤治療に専念することにしていた。その間、治療を終えたら何かをするために、市役所の広報誌などの資料集めをしだした。市の事業には市民のための生涯教育という制度がある。あるいは新聞社主催の趣味の集いなどがあった。それらの中から、自分に合いそうなものを、一つ、二つほど見つけて取り組もうと思っていた。同じ死ぬにしても、それまでは背を向けていた世間に出てみようというのである。
その中から、市が支援している年配者向けの囲碁のサークルに通うことを決めた。ここは初級者や低段者が多い。祐一郎は高段者なので、求められれば教えてみようと考えたのである。もう一つは新聞社が後援している書道教室に通うことにした。祐一郎は字が上手いとはいえない。恥をかいてみるのも良いかもしれない、という心境に変わっていた。さらに書くことによって、心が落ち着きそうな気がしていた。結果的に、祐一郎は教え、教えられることを選択したことになる。ただ、長いこと多くの人との接触を避けてきた祐一郎には、人と親しく交わることが出来るかという一抹の不安があった。心の扉をいま一度少しずつ開けていかねばならない。新しく生きていくためには、そうするしかないと、思い定めた。
一回目の辛い抗癌剤治療を終えた三月の終わりに、気分も回復し幸いにもまだ髪の毛も抜け落ちていなかったので、祐一郎は聞いていた女子高校生の最後の出番の日に、スーパーマーケットに行き、そのレジに並んだ。祐一郎の顔を見て、「ああ、良かった。私、ポスフールに配属が決まりました。是非来てくださいね」と、女子高校生が港方面にある、大型複合商業ビルディングの名前を挙げ、ほっとした様にいった。 
「ええ、必ず行きます。私は和賀といいますが、たかのさんも頑張りなさいよ」と、祐一郎は初めて自分の本名を名乗り、女子高校生が付けている名札の名字をいい、励ました。何故女子高校生が、自分に興味を持ってくれたのかは分からずじまいだったが、彼女の無垢の行為が、祐一郎をいま一度世間と向き合わせてくれたことになる。不思議な巡り合わせに、感謝せずにはいられなかった。 
二回目の抗癌剤治療に臨むとき、あることに気が付き、病院への道とは反対の駅の方に行ってみた。そこには鉄橋があり、眼下に駅のホームを臨むことが出来る。毎年、その斜面に蕗の薹が咲くことを思い出したのである。はたして、雪が溶けて土があらわになっている一面は、蕗の薹の群れで鮮やかな緑色に染まっていた。祐一郎には、それが春の息吹であり生命そのものだ、と感じた。川本がこれを見ることが出来たのかどうか、祐一郎には分からない。祐一郎にはまた癌の再発や、いつかは孤独死や孤立死という名称でよばれる死を迎えるだろう、ということの思いがある。来年も蕗の薹を見ることができるという保証はない。だが命ある限り、毎年ここに来て蕗の薹を見に来ようと思った。それまで精一杯生きてみようと思い、緑色の蕗の薹の群れを、目頭を熱くしながら愛おしげに見続けていた。


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