川本は祐一郎の視線を感じたのか、「昨年、医者から余命三か月といわれたのですが、それも過ぎてしまって、まだこの通りです」といい、ふわりとした笑顔になった。 「悟られているのですね」 「悟りですか、とてもとても、私のような凡人には無理な話しです」 「では、達観されておられるのだ」 「いえ、それも無理。ただ、いかに諦めるかでしょう」と、川本はいい、さらに、「こうなったら、蕗の薹を見てから死にたいと願っています」 「蕗の薹?」 蕗の薹とはキク科フキ属の多年草で、早春の雪がまだ解けきらない間に顔を出す山菜で、春の使者ともいわれている。 「私は春の季節が好きでしてね。蕗の薹はこの北国の長い冬から解放されて、雪が溶けて土があらわになったところから芽吹きでて、春の訪れを感じさせます。あれを見ると、ああ、春になったのだと実感がわくのですよ。そのわくわくとした気持ちをいだいて死にたいのです」 「なるほど、蕗の薹は蕗の蕾ですからね、いかにも春そのものですね。ただ、私なら美しい桜の木の下で死にたいと思いますがね」 「そうでしょうなあ。ただ、私には美しすぎて哀しすぎます。また翌年も見たいと、未練が残りそうで」 川本は淡々とした語り口から、少し沈みがちにいった。 祐一郎は、その言葉にはっとして、川本の心のなかに入り込みすぎてしまった、と思った。川本はひょうひょうとした印象を人に与え、祐一郎もつい気安く相槌をうっていたが、必死に死の恐怖をから耐えていることが分かった。祐一郎は、川本が自分に声を掛けてきたのは同じ死の淵をさまよい歩く者同士と感じ取ったのだろうかと思った。 祐一郎は病室に戻ってからも、川本との会話を考え続けた。 ― 以前は簡単に死んでしまいたいと思っていたが、末期癌と宣告されたらどうなるだろう、素直に受け入れることができるだろうか。いままで、この社会から背を向け生きてきたが、本当は不満だらけで未練たらたらではないのか。無念の思いを残して死んでいくだけの話ではないのか。 祐一郎は自身の心底を探り続けた。 次の日、胃腸の内視鏡検査をした。後は明日、その検査結果が医師から告げられることになっている。それまで、長い時間を過ごさなければならなかった。 翌日の昼前、看護師が来て別室に案内された。そこでは担当医が待っていた。 入室すると、担当医は穏やかな顔をして、静かにいった。 「加賀さん、残念ながら大腸に癌細胞が転移していました。ただ、まだ小さく他の部位には見られないので、今なら簡単な手術で済みます、直ぐに取り除いてしまいましょう」 担当医は淡々と述べ、後半の言葉には励ますつもりなのであろう、語気を強めた。 さらに担当医は、今後癌が再発したとしても、このように早期発見していけば病気を克服していけるだろうともいった。 祐一郎はその言葉に、頭の中が白っぽくなっていくのを感じた。同時に全身の力が抜けていき微かに足の震えを感じた。そして、震える心の中で、本当はまだ生きていたいという自分の心底をはっきりと見た。祐一郎はしばらく俯いていたが顔を上げると、「お願いします」と担当医の目を見て、きっぱりといった。
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