母に訊くと、父の渓流釣りは事故死した赤井川村しか行かなかったという。釣りをした後、赤井川村にある温泉で汗を流してくることも、楽しみのひとつだった、と言った。 母は一度だけ、私が生まれる前に連れて行ってもらった、と言った。 私が、たった一度だけなの、と訊くと、父は、これは俺の領分だ、と言い、こういうところに来ていることを知ってもらうために連れてきた、と言って、その後はいつもひとりで行ったということだ。 母は、その後入った村の温泉が熱めで私には合わなかったから、と言い訳のように言った。母は、もし一緒ならば、事故死なんか無かったかもしれないと、と考えているのだろうか。 私は小さく被りを振って、俺も明日赤井川村に釣りに行ってみる、と言い、支度を始めた。母は驚いたようだが、しいて反対はしなかった。以前、父にしていたように握り飯の用意をしてくれた。 翌日、星が消えきらぬ前に家を出た。 赤井川村へは、母から聞いた父と同じ道順を取った。 車を走らせながら、高校を卒業して直ぐ小樽を離れ、帰ってから仕事に没頭した為に、小樽以外のことはあまり知らないことに気がついた。 ―家族の生活を守るために、親父もそうだったのではないか。俺も同じことをしている、と思った。 やがて余市町に入り、地図で道を確認して赤井川村へ向かった。暗い道だった。この道を親父がひとり通っていたのか、と思うと、熱いものがこみ上げてきた。 車が冷水峠を越え、下っていったときだった。突然、眼下に蒼い湖が現れた。私は目を疑った。小樽の隣村に湖があるとは思いもしなかったからだ。湖は道を曲がりくねるたびに、黒い木々の間から見え隠れする。 これはいったい何なのだ、と半信半疑な思いを持ち続けながら車を走らせた。 その正体が、峠を下りきったときに、深く濃い靄であることを知った。村のはいり口の街路灯の裸電球がにぶく灯っているのが印象的だった。 私は小樽市と背中合わせの隣村のことさえ知らない自分に対して、なにをやっているのか、と声に出し、苦笑いをした。 急に思いたった為に、川釣りの知識も準備も整っていないまま、行き当たりばったりの適当な場所をえらんで川に入った。周りは細い木々が生い茂っている広い川原で、後に赤井川そのものと知った。餌は、道具箱にきれいに整えられていた疑似餌を使った。渓流釣りは磯釣りと違い、経験と腕がものをいう。素人で一匹の成果も無かったが、川のせせらぎや森林浴を満喫し、美味い握り飯を堪能した。帰りに村営の温泉で汗を流したが、母から聞いていたとおり、熱めの湯だった。が、気持ちがすっきりとして気分転換になった。こうして、私の渓流釣りが始まった。
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