それから七年の歳月が過ぎた。 就職して四、五年くらいから、母が、そろそろ帰郷してはという手紙や電話があったが、そのたび、まだまだ、と渋った。 父からそのような話はいっさいなかった。 しかし、帰郷は父の事故死という形で実現された。趣味の渓流釣りで、赤井川村に行ったとき、足を滑らせて川に流された他人を助けようとして抱きつかれ、その人自身は助かったが、逆に父が溺死した。 まだ、五十歳代の若すぎる死であった。 そして、私が工場の後を継いだ。 遺品に渓流釣り一式が残った。母は忌まわしいから処分しょうとしたが、私が抑えた。私に残された父との唯一のつながりのような気がしたからである。 帰ってきて、母の話を聞くにつれ、父がどんなに私の帰りを望んでいたのかが分かった。頑固な父であり、そんなことはおくびにもださなかったが、母には手に取るように見透かされていたようだ。 私は小樽を離れるまで、友人と磯釣りは時々していたが、渓流釣りの経験はなかった。父はいつもひとりで行った。私もせがんだことはない。べつに反目していた分けではなかったが、何故か会話が少なかった。そのことが特に奇異と感じたことなく過ごしてきた。父への畏敬の念の裏返しかもしれない。 いつの頃からか二歳下の妹が、父と私の仲介役のような役目を果たしていた。何故そうなったのか、当時の自分を振り返ってもよく分からなかった。互いに古い型の頑固者なのだろうとしかいえなかった。 継いで二年たった夏の終わりごろ、今の妻との結婚話が持ち上がった。丁度仕事に行き詰まりを感じていたときでもあった。私は思い立って、それまで納屋に仕舞って置いた埃にまみれた父の竿を引っ張り出した。竿を一本一本丁寧に磨いた。磨くほどに心が落ち着いてきて、もう会うことが叶わぬ父が懐かしかった。 そんな私を母は怪訝そうに見ていたが、やがて、父さんも何か考え事があるとそうしていたわね、と言った。 そのとき、私は何かを感じた。
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