私は釣り用のジャケットやウェダーと呼ばれる靴付きの胴衣を身に付け、万全の支度をして川原に向かった。 すでに靄も消え、広い川原全体が見渡せた。他の釣り人はいない、私ひとりだ。浅瀬の石を洗う水の音が、耳に心地よい。 私は深呼吸をして、川の匂いを胸いっぱいに吸った。美味かった。 次に竿を取り出し、ゆっくりと釣りの支度に取り掛かる。ひととおりの儀式めいたことを終えて、狙ったポイントに初めて糸を放った。 この瞬間がなんともいえない。すぐには釣れないだろうということが分かっていてもだ。あとは私自身が、川を漂い流れる哀れな餌になりきって、魚の気をひき付けることだ。 引きがなければ、この動作を繰り返す。飽きずに繰り返す。それでも駄目なら、次のポイントに移動して、同じことを繰り返す。私と川とが一体になるまで繰り返すのだ。 今日の狙いは、岩魚や山女である。成果は期待していないといえ、やはり欲が出る。家に帰ったとき、家族に何匹かは披露したい。釣った魚を肴にして、美味い酒も飲みたい。だが夕べから頭を離れないことがあり、その他あれこれ考えだすと、自然に溶け込むことが出来なかった為か、竿はぴくりともせず一匹も釣れない。 気がつくと、川原の木々の間から明るい陽が差し込んできていた。 腹も空いてきたので、朝飯を食べることにして荷物を置いてある岸に戻った。 昨夜妻が作ってくれた握り飯をバックから取り出し、その場に座って食べはじめた。 いつものことながら、ここで食べる握り飯は美味かった。 食べながら、昨日起こった中学二年生の息子の騒動のことを考えた。 学校に男子同級生の母親が、息子に我が子が暴力を振るわれ怪我をさせられたと、怒鳴り込んできたのだ。 私は従業員三、四人程度の小さな自動車修理工場を営んでいるが、連絡を受け、事務を担当している妻を学校に行かせた。 妻はあわてて向かったが、数時間後、満足げな表情で帰ってきた。 訊けば、怪我をさせたのには違いないが、顔面にひとつ青いあざを付けただけの、ささいなものだった。喧嘩の原因は、その相手が別な同級生への陰湿ないじめに対しての、義憤ともいえるものであった。 その相手は秀才タイブで、成績が良い生徒であったが、心に鬱積したものを持っていたようである。いつも徒党を組んでいる、腕っ節が強いことが自慢の二人の生徒をたきつけて、少し知能が劣り動作の鈍い男子生徒を間接的にいじめていたという。息子はもちろん、クラスの皆も知っていた。それまでは、いじめている生徒に対して、息子がしばしば止めていたが、他の生徒は傍観しているのがほとんどだった。
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