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作品名:赤井川村にて 作者:じゅんしろう

第10回   10
 老人を送ってから、随分と時間が経っている。心配しているに違いなかった。老人の風雪が刻まれているような深い皺の顔を思い浮かべて、帰り支度を急いだ。
村の温泉場に着いてみると、背広姿に着替えている老人が玄関先に心配顔で立っていた。
「風呂には入られましたか?」
「ええ、充分に温まりましたし、下着も服も取替えました。もう身体は大丈夫です。それより竿は見つかりましたか?」と申し訳なさそうに訊いてきた。
「はい、手間取りましたが見つかりました。心配には及びません」と、老人に精神的に負担を掛けさせない為、咄嗟に嘘をついた。それよりもつと大事なものを得た、と思っていたからである。
私が湯に浸かっている間、待っていてくれるというので、すぐに身体を温めることにした。実際、身体は冷えきっていた。
湯に入ると、身体がじぃんと痺れる様だった。ゆっくりと時間をかけて温まった。          目を閉じていると父が側にいて、一緒に入っているような思いをいだいた。おぼろげながら、幼いころ父と何度か風呂に入った記憶があるが、小学校を卒業したあたりからはひとりで入っていた。懐かしさに目頭が熱くなった。
湯から上がると、いつも用意している着替えに取替え、食堂も兼ねている休息室に向かった。
老人は思案顔で座っていたが、私に気がつくと居住まいを正した。そして、深々と頭を下げた。まわりの人が、何事かというように見たので、私のほうが慌ててしまい、小声で、お顔をお上げください、と言って制した。大げさなことにはしたくなかったし、他の人に知られることなく、処理したかった。出来ればこのまま、ではこれで、という淡々とした別れ方をしょうと思っていた。父もそういう人だったように思う。私もその性格を強く受け継いでいるようだ。
しかし、相手のあらためて我が家に来て、挨拶したいとの強い意向に根負けした私は、致し方なく身分を明かした。
老人は札幌で食品卸問屋を営んでいたが、今は婿養子に任せ隠居の身だという。好きな渓流釣り三昧の日々を送りたい、と言うのは表向きの理由で、婿養子に気兼ねなく経営に専念させたいためだと言った。
「渓流釣りで死ぬことが出来れば、本望だなんて嘯いていましたが、実際死に掛けてみると正直ショックでした。甘かった」
と言うと、老人は大きく溜息をついた。


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