咲子が話し終えると、聞いていた私の方が、ふうーっと、溜息をついたほどだ。 「すごい話だね、水戸藩では針のように先鋭化した空理空論の朱子学のせいで大混乱になっていたことは知っていたが。英一がここにきて継母に会ったのは正解だったようだね、あいつもなかなかだ」 「私も初めて聞かされた時は驚いたわ。だから菜箸作りは、平凡でもつつましく賢い生活こそ文化があるということの証であり、さらにいえば女の心意気なのよ。この思いは昔も今も変わってはいけないのよ」 「私が結婚した年の暮れから菜箸が送られてきたが、それを啓子にも伝えようとしたのだろうか」 「さあ、それはお母さんに訊いてみなければ分からないけれど、たぶん、そういうことだと思う」 「啓子にも作り方を教えたいと思っていたのだろうか」 「それはないわ。代々自分の娘と家に入ってきたお嫁さんだけなのよ」と咲子はきっぱりといった。 「女の子が生まれなかったとか、お嫁さんが来なかったらどうするのだ。途切れてしまうではないか」 「それでおしまいね。でも、それはそれで仕方のないことよ、いつかは途切れるものだから。世の中は少しずつ変わっていくでしょう。江戸時代の水戸の女の人からみればお母さんが、シャンソンを好きだなんて考えられないことでしょうから」 「ああ、継母がシャンソンを好きだなんて知らなかったし、葬儀に対してもこのような考え方を持っていたなんて考えもしなかった。親父のときは、ごく当たり前の葬儀だったから」 「お母さんにいわせると、葬儀はできるならばその人の望み通りが一番いいのよ、といっていたわ。けっして自分の考え方を押し付けることはしない人だったわね」 「菜箸や野菜作り、継母から咲子へ伝わり、さらには美奈江に伝わろうとしている。うちはどうだろうかと、つい比べてしまうよ。けっして育て方は悪くはないと思っているけれど、咲子の子供たちを見ていると、少し自信が揺らいでしまうな」 「そんなことはありません、それは思い過ごし」 「まあ、それはそれとして、この何日かの料理は懐かしい継母の味だったが、せめて継母から咲子に伝わったように料理の味は、啓子から娘の貴子に伝わってほしいものだね」 私がそういうと、一瞬、咲子は怪訝な表情をした。 咲子はしばらくうつむいて考え込むようにしていたが、意を決したように顔をあげた。 「この味はお母さんの味ではないのよ、前のお母さんの味なのよ」といい、咲子はじつと私を見た。 「なに、どういうこと?」と、私はその意味が分からず、思わず声を高くして訊いた。 「お父さんが亡くなる少し前、私にいっていたのよ。お母さんがこの家に入ったとき、お母さんの味を捨てて、前のお母さんの味にしたといっていたわ。お母さんはとても味覚が鋭くて、前のお母さんの味を知っていたのね。あるいは、前のお母さんに料理のレシピを聞いていたのかも知れないわね。この家でのお母さん本来の味は畑で作った漬物だけなの。お父さんが初めてお母さんの手料理を食べたとき、びっくりしたといっていたわ。そして、お母さんがどういう意思をもって再婚したかということを理解したといっていたのよ」
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