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作品名:菜箸 作者:じゅんしろう

第4回   4
そういえば父が亡くなって数年後、寺の檀家をやめ、自分で父と実母の供養をしていくとの継母からの手紙を受け取ったことを思い出した。
 私自身は信仰を持っていなかったので、簡単に葉書で、よろしく頼みます、と返事を返したことだった。
 「別に異議はない。以前読んだ本で、江戸時代の学者が色即是空、一切が空ならば亡くなった人間の何が極楽浄土に行くのか、という問題がいまだに論破できていないという。それ以来、仏教に懐疑的な気持ちを持つようになったからね」
 「へえ、知らなかったわ。極楽浄土に行くのは魂ではないの?」
 「いや、空は無ということだから、すべてか駄目なのだ。理論的に説明できないのだよ」
 「お坊さんたちはどう解決しょうとしているのかしら」
 「うむ、難しい問題だと思うよ。論破するか教義を変えるしかないと思うのだけれど、本当にどうするつもりなのかね、わからんなあ。だから、継母のこのことは気にしなくていいよ」
 「本当、それで安心したわ。お母さんずいぶん気にしていたようだから」
 「それはよいとして、墓には入るのだろう。仏教徒の関係はどうなるのだ?」
 「もともと、墓と仏教は関係ないからいいのよ。初め、お母さんは遺灰を海に撒いてもらいたかったらしいけれど、或る夜、夢に前のお母さんが現れて、駄目ですよというように首を振るのですって。それで三人一緒に仲良く入りましょうかねといっていたわ」
 咲子はあえるはずもなかった私の実母のことを、前のお母さんといういい方をする。私との血の繋がりのためか、咲子のもう一人の母という意識をいだいているようだ。
 そのあと遺体の安置されている次の間で、咲子が継母の死に至った経緯と、生前の故人への謝意を述べて後は酒になった。密葬ゆえ当然参列者は少なく、親族以外は十人にも満たなかった。しかしながら酒を酌み交わしているうちに、本当に継母の死を悼む人々の集まりであることがよく分かった。日頃の継母の人への接し方が思い起こされるようであり、通夜はむしろ静かな穏やかささえ感じられるものであった。
 たまたま、私の隣に座った継母と同年代と思われる品のよい婦人と話をしていると、ふいに、「もう澄江さんから菜箸をいただけないかと思うと寂しいわ」といった。
 「えっ、菜箸をですか?」
 「はい、いつも新年にいただいておりましたのよ。それを手に取るとなぜか不思議に力が湧いてくるような気になりましたものですよ。それに亭主と喧嘩したときなど、菜箸をじっと見ていると、心が落ち着いてきて、厭なことも何処かへ行ってしまいましたものでしたのよ」といった。
 そのとき、少年のころ何度か実母がじつと菜箸に見入っていたことを思い出した。あの光景も、実母はこの夫人のような思いではなかったのか、と。そのときの実母の様子がいつもの優しい表情が消え、近寄りがたい感じを覚えて、遠くから見ているだけだったのである。
 あなたも菜箸をいただいていたのですか、と別の初老の婦人が隣の同じ年恰好の婦人に行った。訊かれた夫人は、ええ、あれは心のよりどころで、どれだけ助けられたことか、と答えていた。それらを聞くともなしに聞いていると、葬儀に出ている夫人は皆がもらっていることが分かった。さらに、高齢の紳士の方も、亡くなられた奥さんももらっていて、今日は亡き妻の代わりに来たのですよ、といった。この席に連なっている親族以外の方々は全員、菜箸を受け取っていたのだった。いつのまにか、それぞれが菜箸についての思い出を語りだした。それらの話のひとつひとつが、素直な気持ちで、ありのままの姿が伝わってきた。
 私は、それらの話から継母のいろいろな姿を知るにつれ、人と人との本当の付き合いとは、どういうことを改めて考えさせられ、心が暖かくなっていき自然と笑みがこぼれた。
 ふいに以前にも、このような暖かい人々との触れ合いが感じられた式に身を置いたことが蘇った。それは三十年ほど前のことになるが、商社に就職して二年目のことで、そのころは会社の寮で暮らしていた。その寮の先輩が社内結婚をすることになった。特に結婚式はしないということだったので、急に有志による披露宴を寮の食堂でとりおこなうことになり、男子寮と女子寮の人々が集まり、簡単な飾りつけをしただけのささやかなものだったが、気取りや飾り気のない、まことに気分の良いものだった。先輩の人柄のなせるものだろうが、後にも先にもあのような披露宴は二度と経験していない。葬儀と披露宴を同列に並べるのは不謹慎ではあるかもしれないが、似たような思いにとらわれ、その思いは葬儀の間続いた。


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