V 咲子は私に気がつくとすぐに継母のそばに導いてくれた。顔にかけられている白い布を取ると、近況を知らせる今年の写真より、思いのほか老けてはいたが穏やかで人形のような死に顔だったので、ほっとした。 「急だったね、何か前兆みたいなことはあったのかい」 「ううん、全然なかったわ」 「亡くなった時、どういう状態だったの」 「暮れにお兄さんのところに送る菜箸を作っている最中だったのよ」 「菜箸を、か」 「ええ、菜箸です」 「そうか…」 無論、継母の菜箸を作っているところなど知る由もなかったが、不思議なことに夜ただ一人で菜箸作りに励むその姿が、ふっと思い浮かんだ。 ふいに目頭が熱くなり涙がこぼれた。自分でもどうすることもできず、しばしむせび泣いた。咲子は私が落ち着きを取り戻すまで、じつと側についていてくれた。自分の妹ながら、涙も見せず気丈な女だと思ったが、心のどこかで打ちひしがれていないことに、ほっとした思いも覚えた。 姪や甥に会うのは、父の葬儀以来であったが、のびのびと育てられているのが分かり、私に対しての接し方や何気ない立ち振る舞いに無理がなく、咲子の躾けがどういうものかよく分かった。つい自分の子供たちと比較し、きちんと躾をできていたかどうか自問自答してしまった。私と啓子とで、子供たちはよく育てた方だと自負してはいたが、どこか違うような気がした。それがどのようなものかは分からなかった。 葬儀は昨夜の電話において、生前からの故人の遺言ということであらかた説明はされてはいたが、思いがけないものであった。実家において近親者による密葬ということで執り行なわれていたものであるが、僧侶はよばず、したがって戒名もなく本名の位牌が置かれ、桔梗の花が飾られているだけだった。読経の代わりに生前から継母が好きだったというラ・メールのような私も知っているような曲や、全然知らないシャンソンの曲が語りかけるように静かに流れていた。 葬儀が始まる前、別の部屋で咲子が改めて説明してくれた。それによると、継母は以前から今の仏教のあり方に懐疑的だったという。父の死後、いろいろな仏教関係の書を読んでいたとのことだった。その中で、実家の宗派である曹洞宗の禅宗において賤民や非民に差別戒名をつけ、葬儀に家柄や金額により僧侶にしか解らないに差をつけるという指南書が昭和の後半まであったことを知った。それは禅宗だけではなく他宗派もあるようだということだ。そのとき継母は咲子に、「戒名がお金の多寡で違うということはいつも疑問に思ってきたが、亡くなった人に差をつけるなんて、あまりにもでたらめが過ぎます。宗教家でも何でもない。単なる葬式業者に過ぎない。今日限りお寺との縁を切ります」と、いつもの穏やかな人柄からは想像もできないような厳しさで、宣言をしたという。 「寺と悶着は起きなかったのかい。たしかにこのごろは、寺を外して葬式をすることが多くなっているということは新聞やテレビなどで紹介されているが、それに対して、酷いことをいう坊さんもいると聞いているよ」 「それはなかったみたい。そういうことではお母さんの話の持って行き方は上手だから」といい、「ただ、お兄さんの意向は気にしていたようだったけれど」と続けていうと、私の気持ちをあらためて覗うような目をした。
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