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作品名:菜箸 作者:じゅんしろう

最終回   10
「私の為か?」
 「そう。お母さんは言わないけれど、お父さんがいっていたの。前のお母さんが病気でもう助からないと覚悟をしたとき、お母さんに、私が死んだらお父さんと再婚してほしいと頼んだといっていたのよ」
 「……」
 「お兄さんはこれから大事な時期を迎えるし、お父さんは人が好いから、それだけに知らない女性が後に入ったら不安だし、後を託せるのはあなただけよ、といって泣いて頼んだそうよ」
 「……」
 「前のお母さんは、お父さんにも是非そうしてといったそうなの。お母さんもずいぶん悩んだ末に、この家に嫁いできたのよ」
 私は声もなく咲子の話を聞いていた。
 すべてが符合した思いだった。私の為に自分の味を捨て、なにもいわず尽くしてくれていたとは。継母が家に入っても違和感を覚えなかった訳が分かった。少年だった私にとって、まだ、おふくろの味というものが分からぬままに、継母によって実母の味が引き継がれていたことに何の疑問もいだかなかった訳である。実母と継母による、二人の強い意志に守られ育てられていたのだった。
 ―なにも知らず、当たり前のように毎日三度三度食べていたということか。なんて奴だ、この俺は。継母の決意の深さを考えると、愕然とした思いにとらわれた。
 「お兄さん、どうしたの」
 激しく顔色が変わった私を見て、咲子は心配そうな声を出した。
 「俺は、俺は…」 後は言葉にならなかった。
 突然に大粒の涙があふれ、慟哭に身を震わせ続けた。
 どのくらいそうしていただろうか、その間、咲子は黙って見守ってくれていた。
 「ありがとう、おふくろたち」 ごく自然にその言葉がでた。心が洗われたようなじつに清々しい気持ちになっていた。
 咲子を見ると、目を真っ赤にして泣き笑いの表情で、「ありがとう、お兄さん」といった。
 「?」
 「お母さんをおふくろといってくれて嬉しいわ」
 私はその言葉に、はっとし、黙って何度も小さく頷き、また菜箸を手に取って見入った。江戸時代から営々と続いてきた、継母の家系の女の歴史を見る思いがした。
 次の朝は小春日和から一転して肌寒かった。後のことは咲子夫婦に一任し、私は帰りの飛行機に乗るため、また義弟の輝夫に駅まで車で送ってもらった。
 「義兄さん、こんなことをいって変なのですが、葬儀、なかなか良かったですね。あのような葬儀は初めてです」
 「輝夫さんもそうですか。じつは私もおなじ思いでした」と答えると、輝夫はバックミラー越しに私に笑いかけてきた。私も少し笑って相槌をうった。
 「先ほど玄関先で別れ際に、咲子が楽しみにしていてね、といっていたけれど何なのですか」
 「今度からは、咲子が菜箸を作って送ってくれることになってね」
 「菜箸ですか?」
 輝夫はその間の事情は、女たちの伝承ごとであるため、なにも知らないようであった。
 「まあ、後で咲子に聞いてください」といってから、妻の啓子や子供たちとできるだけ早い時期に小樽に家族全員で来ようと思った。車の中からは、雪がちらちらと舞い降りてくるのが見えたが、私には小樽の街を彩る白い花びらのように思えた。


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