「政ちゃんはどんなに困っても、人を頼ったり、土足で踏み込むようなことは決してしなかった」と、亡くなった夫のことを言い、首を回して栄治を睨んだ。 「何を言いやがる、あんなうすのろと一緒にするな」と、怒鳴ると、陽子を思いっきり突き飛ばした。陽子は強く地面に叩きつけられ、手足から血が滲んでくるのが分かった。よろよろと起き上がり振り向くと、栄治の右手には何かが握られていた。ナイフだった。 「殺してやる。まだあの野郎のことを想っているのか」 「ああ、想っているわよ、生涯で一番大事な人だもの」 「このあま!」 栄治は嫉妬と憎悪で醜い形相になっていた。 「わあぁー」と叫ぶと、ナイフをかざして陽子に突進してきた。 陽子は危うくかわしたが、左の袖口のあたりを切られ、腕に痛みがはしった。 栄治はかわされたので、さらに逆上し、しゃにむにナイフを振り回した。だが、かなりの酒を呑んでいたため、息はきれぎれで、はあ、はあと荒い息をはいていた。それでも逃げ躱していた陽子を工場の壁に追い詰めると、ナイフを大上段に構え振り下ろしたが、勢いあまったため足がもつれて、陽子と組み合ったまま一緒に倒れこんでしまった。はずみでナイフを落としたが、それでも陽子の首を絞めに掛かった。陽子は必死で逃れようともがいていると、偶然にも落ちていたナイフに触れた。それを握ったとき、馬乗りになっている栄治は腕に力を込めようと、上体をわずかに起した。その隙間から陽子は栄治の左胸を下から両手で思いっきり突き刺した。 「ぎゃー」と栄治は叫び声を上げると、ナイフが突き刺さったままの左胸に手をあて、血だ、血だと言いながら、よろよろと立ち上がったが、もんどりをうってひっくり返り、そのまま動かなくなってしまった。 陽子が荒い息をつきながらも、ようやく起き上がると、倒れて動かなくなっている栄治に恐る恐る近づいた。栄治の顔を覗き込み、両手で揺すってみたが、ぴくりともしなかった。ああー、と陽子は声にならない声をだした。頭の中が真っ白になっていくようだった。 そのとき後ろで、「きゃー、人殺し」と叫ぶ若い女の声がした。振り返ると、暗がりを楽しむ若いアベックのようだ。 陽子はその叫び声に恐慌をきたし、その場から走り去った。 アパートの手前まで無我夢中で走り帰って来た。その少し手前の物陰から様子を窺った。この間の警察官が待ち受けているような気がしたのである。しかし、ひっそりとしていた。直後のことで、警察の手配が廻る訳もなかった。気持ちを落ち着かせて、豆電球にぼんやりと照らされている部屋にそっと入った。そのまま、へなへなと座り込んでしまった。
|
|