アパートに着くと明かりがついていなかった。いつもなら、すぐに活きよいよくドアを開けてくるのに、それがなかった。陽子は、どうしたのかと不安になり厭な予感がした。いそいでドアを開け入ったが、ダイニングキッチンには絹子の姿がなかった。和室にもいなかったが、少し荒れているようだった。次の間は閉められていた。 その部屋から、微かに、いやだいやだと言う絹子の声がし、な、な、いいだろうと言う栄治の声が聞こえてきた。陽子は何が起きているかということが、すぐに分かった。部屋の襖をおもいっきり開けた。そこには、服が乱れ逃れようともがく絹子と組み伏せようとしている半裸の栄治の姿があった。部屋からは酒の匂いが、ぷうーんと鼻をついてきた。 「何をしている!」 陽子の怒鳴り声に栄治は大きく跳ね起きた。陽子は台所に駆け込み包丁を取ると、殺してやる、と叫び栄治に突きかかっていった。栄治は、ひぇーつと女のような甲高い声をだし、危うくかわすと、這い蹲るように逃げ回った。陽子はなおも栄治を追い回した。栄治は日頃いきがっていたが、陽子の振り回す包丁から、ひぃ、ひぃと声にならない声をだして、だらしなく逃げ回っているだけだった。ついに部屋の隅に追い詰められ、恐怖で引きつった顔で、き、きちがいと叫んだ。洋子の目はらんらんとして吊り上り、すさまじい形相になっていた。夜叉であった。 止めて、と絹子が叫んだ。その声で、陽子は我に返った。見ると、絹子と恭太が部屋の片隅で抱き合いながら陽子を見ていた。 「もう、ここへは二度とくるな、わかったか!」 陽子が叫ぶと、「わ、わかった。もうこない」と、栄治は震える声で鸚鵡返しに言い、転げるようにして出て行った。 部屋は静寂になった。陽子はその場に座り込むと、震えるまま肩で息をしていた。その間どのくらいだったろうか、ようやく気が静まると、絹子と恭太のほうを見た。二人の目は陽子の手元に注がれていた。陽子は握っていた包丁を離そうとしたが、指が包丁の柄にくい込まれているようで、離れなかった。左手で握っている右手の指を一本一本剥がしていった。ようやく包丁を放り投げると、二人に駆け寄り抱きしめた。ごめんね、ごめんねと繰り返し言いながら二人の背中を摩り続けた。 「お母さん、私は大丈夫」と、絹子は震える声で言った。見ると、まだ恐怖で顔が引きつっていた。白いブラウスのボタンは二つほど無くなっていて、スカートは皺だらけだったが、無事なようなので、ほっとした。恭太は絹子にしがみついていた。恭太の頭を優しく撫でてあげたが、絹子にしがみついたままだった。今の出来事がよほど恐ろしかったのだろう、と思ったが、私に対しても恐ろしかったに違いないと思った。やはり、私も亡き母の血を受け継いでいるのかと思った、あの狂気の血が。
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