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作品名:姉弟の詩 作者:じゅんしろう

第16回   16
 絹子が四歳のとき、また妊娠した。それが陽子の幸せの絶頂だった。
 二人目を妊娠したあたりから、政一の顔がなんとなく黒ずんできた。しかし、もともと色黒のほうだったし、陽子自身のつわりの苦しさもあり、また心配を掛けたくないためか政一の口からも体調不良を訴えることもなかったので、気がつかないでいた。
 お腹も随分と膨らんできたころ、ようやく政一の異変に気がついた。
 一度病院で診察を、と薦める陽子の言葉に初めは渋っていた政一も、身体的に変調に耐え切れなくなったのか、二人で病院に行った。
 老練な感じの医師は、政一の顔色を見て、問診しただけで、有無を言わせず精密検査をするために入院させた。
 数日後、陽子はその医師に呼ばれ、膵臓癌に侵されていて、すでに末期症状で余命二ヶ月と宣告された。
 初め陽子は医師が何を言っているのか意味が分からなかった。心臓が締め付けられているのに、頭の中は空っぽになったようで、何も考えられなくなっていた。そのまま診察室を離れ、ふらふらとした足取りで虚ろな目をして廊下を歩いた。まるで雲の中を歩いているような感覚だった。気がつくと、病院の中庭のベンチに座っていた。幾人かが散策をしていたがまるで目に入らなかった。
 しばらくたって、なんで私たちがこんな目に遭うの、何か悪いことをしたの、とつぶやくと、うなだれ両手で顔を覆った。涙があふれ嗚咽し続けた。
 陽子の家族計画が崩壊した。
 そのあと、陽子はつとめて明るく振舞い、癌を隠そうとしたが、政一は気づいているのか娘の絹子が見舞いに来るとそばに引き寄せ、しきりに髪や顔を撫ぜまわした。
 ある日、陽子の顔をじつと見て、「陽子のおかげで、暖かいまともな家庭というものを味わうことができた。ありがとう」と言って、手を握った。政一の手はすでに細くなっていて力がなかったが、陽子はその手に頬ずりをした。とどめなく涙が流れた。
 さらに、男の子が生まれたら、恭太と名付けてくれと言った。女の子だったらと、と陽子が訊くと、そのときは陽子が名前を付けてくれと言った。そして、絹子とこれから生まれる子供は陽子の父親の孫なのだから、早く仲直りしてくれと言った。
 秋の深まるころ、政一は死んだ。三十一歳の早すぎる死だった。
 葬儀はホテルで執り行ってくれたが、父親には知らせなかった。
 葬儀では栄治が何くれとなく世話をしてくれたが、無論、そのときの陽子には何の思いもなかった。


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