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作品名:姉弟の詩 作者:じゅんしろう

第13回   13
 そのようなころ、陽子より二つ、三つ年上でホテルのシェフをしている滝上政一を知った。どちらかといえば色黒で無骨な顔立ちの、口数の少ない体格の良い男だった。初めから関心外であり、陽子が勤めて二年を経て、わずかに養護施設出身者、ということを知ったくらいだった。
 ある日、陽子が働く事務の部屋から、厨房への出入り口で、何度も材料を運ぶ政一が見えた。何気なく見ただけだったが、何かを避けているようなおかしな歩き方に気がついた。その作業が終わり誰もいなくなったとき、陽子は不思議な動きが気になって、その場所にいってみた。そこでは何匹もの蟻が、虫の死骸を運んでいたのである。
 陽子の顔が和んだ。優しい人なのだ、と心の中で呟いた。それが政一に興味をもった初めだった。
 断片的に政一のことが分かってきた。厨房では真面目に黙々と働いていること、ひとりでアパート住まいをしていること、人との付き合いはないほうで、休日になるとふらりと何処かに出かけているようだ、ということなどだった。
 興味と言っても、色恋というものではなく、同じようにひとりで生きているという連帯感みたいなものを感じる、ということだけである。それだけだと陽子自身も思っていた。
 あるよく晴れた休日に黒岳を散策することにした。秋の山歩きなので、いつもより厚めの登山服に身を包んで出かけた。朱や黄色に彩られた樹木に見とれたり、静かな沼に佇んだり、山の紅葉を堪能した。都会の喧騒が嘘のようである。
 しかし、山の天候は変わりやすい。遠くに雲が現れたと思っていたら、もくもくというように濃い灰色の雲がわいてきて、あっという間に覆いつくされた。
 陽子も帰り道を急いだのであるが、ぽつりぽつりと雨が落ちてきたと思ったら、いきなり土砂降りになった。他の登山者も駆け足で近くへの避難小屋へと向かっていた。その小屋が見えてきたときには、登山道は泥だらけで水が小川のように流れていた。つい足をとられバランスを崩して転びそうになったとき、後ろから肩を掴まれ支えられた。振り向くと、ずぶ濡れになっている政一の顔がすぐそばにあった。
 びつくりして目を見開いている陽子に、小屋へ、と政一は短く言い、抱きかかえるようにして連れて行ってくれた。暖かく包み込まれるような感覚を覚えた。
 避難小屋は人でごったがえしていた。
 二人は片隅に身を寄せ合うと、政一はリュックサックからタオルを取り出し、陽子に濡れたところをふき取るようにと促して手渡した。
 政一は他の登山者から陽子をかばうようにして無言のまま立ち続けた。
 突然、陽子は政一の胸にもたれ掛かりたい衝動を覚えた。男に対して初めての感情だった。


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