後にはお釈迦様と三凶神だけが残った。 「三凶神よ。そなたたちのお陰で、波洵も心を入れ替え仏法に害をなす心配はなくなった。そなたたちと会うことになったのは、すべてはこのことの為かと思う。これで私も心置きなく、我が仏国土に帰ることができよう。ありがとう、さらばじゃ」と、お釈迦様のありがたいねぎらいの言葉に、三凶神は涙ぐむ。 お釈迦様目を閉じ、印を結んで呪文を唱えた。すると、お釈迦様は厳かな金色の光に包まれたかと思うと、ふっ、というように消えた。 三凶神は、ふうつ、と息を吐いた。思えば大変な一日であった。 「そろそろ行くか、木端役人がやってこよう」 と、死に神の言葉に響応するかのように、遠くから、御用だ、御用だ、と大勢の捕り方の声が聞こえてきた。ただ、おっかなびっくりのようで、なかなか浅草寺の境内までは来る気配はない。 三凶神は一度顔を見合わせると、にやりと笑い散り散りになった。
弘化三年閏五月十日、仁考天皇の第八皇女が母の実家である議奏権大納言橋本實久邸で生まれた。母親は典侍の経子である。ただ、先立つこと一月二十六日に崩御されていたので、後を継いだ異母兄の孝明天皇により、和宮と命名された。可愛らしい赤子であったが、不憫なことに左手が変形していた。成長したおりは幕末の動乱期で、公武合体という政略結婚により、十四代将軍徳川家茂の正室として降嫁することとなった。内親王の宣下を受け親子と名を改めた。 江戸に向かうとき、反対する攘夷派の襲撃を回避するため東海道筋を避け中仙道を進んだが、警護は厳重を極め総勢三万人という大行列であったという。それでも、いろいろな攘夷派勢力が阻止しょうと、あの手この手を尽くし襲撃を試みた。が、奇妙なことに一味の軍資金が一夜にして消えてしまったり、あるいはその全員がひどい集団下痢をしたり、さらには一味の領袖がぽっくりと亡くなったりして、ことごとく失敗したということだ。 無事江戸に入った後は、将軍家茂とは仲が良かったという話が伝わっている。亭主の操縦法を心得ていると大奥ではもっぱらの噂であった。 将軍家茂が亡くなった後、落飾して静観院宮と称していたが、維新後、京都に戻ったり江戸から東京と改められていた麻布市兵衛町の屋敷に住んだりした。ただ、奇妙なことに京都においても東京においても、同じ三人連れの町人がときおり訪れ、静観院宮は身分違いなのにかまうことなく親しく歓談している姿を、お付きのものが目にしていた。それは、静観院宮が明治拾年に亡くなるまで続いたということだ。
完
注 皇女和宮には、左手の謎ということが昔から言われています。 そのことに由来して書きました。
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