随分と古い噂であったが、静が娘時代に、この地を離れ都会に出て行こうとしたが、途中で見つかり連れ戻されたことがあるというものだ。駆け落ちしょうとしたらしいが、相手の男の名前は、頑として言わなかったということだ。 「静さん、おめぇ様…」 「女は好きな男の人と一緒になるのが一番ずら。ロミオとジュリエットは哀しいずら」 静は、シェークスピアの悲劇を口にし、トキをじっと見つめた。静の目は心なしか潤んでいるようだ。 ―噂は、本当だったのだ。名前の通り、静かなたたずまいを見せているが、静はなかに渦巻くような情熱を秘めている持ち主だったのだ。好子はそれを受けついているのだ、 と、トキは確信した。 「村長選挙が終わったらせー、皆、少しは冷静になるずらから、そのとき二人を表にだして、話し合わせるのが良いと思うが、静さんはどう思う?」 「それでは、うちの人も、並吉さんの親も承知すめぇ。何か、もっと強い衝撃を受けるようなことがなけりゃ」 静はやはり駆け落ちしかないといわんばかりである。 トキには、まだ誰にも言っていないが、すでに腹案があった。だが、静に対してここで言うべきかどうか迷っていた。しばらくじつと考え込んでいたが、意を決したように静と向き合った。 「おらは、一里や三の里のどちらかが村長になっても、何も変わらねぇと思う。村はジリ貧だ。いま二の里の、ほれ、小学校の同級生だった村井大助さんが立候補しているが、あの人なら村を変えるかもしれねぇ。あの人になって貰いたいと考えているのだ。おらはすでにあの人に一票入れるつもりだが、ほかの女の人にも声をかけてみようと思っている。静さんのご亭主には悪いけれど、そうなれば、何もかも上手くいくと思っているだ」 そのとき、静の目に輝きがはしった。 「いや、悪くねぇ。うちの人は、村長を単に名誉職程度にしか思ってねぇのだ。じつは、おらも大助さんになって貰いたい。おらの一票では、どうにもならねぇと考えていたが、トキさんのいまの言葉で私も決心へら。信頼できる女の人に、声を掛けてみる。そうすりゃ大助さんは当選できるかもしれない。そうなりゃ、ほかの二人は腑抜けのようになるずら。そこで、並吉さんと娘のことを、いつきに決着させましょう」と、静はたたみかけるように言った。 トキは、情熱をこめて喋り、上気したように顔を紅くした静を、驚き見入った。同時に、駆け落ちしようとした相手が村井大助であることを知った。
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