U 国上山は、今でいうなら標高三百十三メートルである。その中腹に越後最古の名刹である国上寺があった。忠精は麓で馬を降り、涼やかな木陰で一息を入れると、緑濃い山林の道を徒歩で国上寺に向かった。忠精が参拝することは触れが出ていたので、道は前日から村人が総出で草を刈り掃き清められていた。随所で村人がうずくまりひれ伏しているなかを、忠精は進んでいった。境内に着くと、多くの僧侶の出迎えを受け本堂で参拝をした。国上寺は和銅二年(西暦七百九年)越後の一の宮弥彦大神の託宣により建立されている。当初は修験道であったが、時代により法相宗、天台宗と改宗し、いまは真言宗である。参拝の後、忠精主従は境内の裏手下にある五合庵に向かった。 五合庵は崖下の木立の中に、ひっそりと建っていた。間口二間奥行九尺、屋根は杉皮を用いた板葺き、柱は竹で戸は筵という造りである。建ててからすでに百十年ほど経っているため老朽化し、質素というより粗末なものであった。 忠精は何も言わず、じつと見続けていた。 草庵の前にわずかな空間がある。遊びに来た童相手に良寛が手毬をついたであろう。 忠精には、何故かその様子がありありと目に浮かんだ。歌声さえも聞こえてくるようだった。そのような戯れを、自分のこれまでの人生において経験することは、けっしてありえざることであった。長岡藩七万四千石第九代藩主の身分がそれを許さなかった。忠精はわずかにうなずくと、黙ってそこを離れた。 山の麓にある、きれいに掃き清められている乙子神社の境内に入った。そこにはすでに村人が集まり畏まっていた。城下の菩提寺の住職への要請は、村中に知れ渡っている。忠精と良寛の対面を、固唾を呑んで見守っている、という風であった。 社務所の屋根は杉皮葺きで、質素な物置小屋といっていい。五合庵よりひろさがあり、そのぶん、ややましといった程度のものだ。 忠精は、その中に入った。 良寛は八畳ほどの板敷きの上に筵をひいた部屋の土間近くで、目を半眼にし、座禅をしていた。忠精は土間に立ったまま、じつと良寛を見た。 良寛は、細面の切れ上がった細い目で高い鍵鼻の持ち主だった。托鉢のため、夏の道を歩いていたためだろう、顔は浅黒い。贅肉の無い身体つきだった。忠精は先ほど会った国上寺の坊主たちの、肥えた顔や身体を思い浮かべた。同じ国上山ながら、良寛は別の世界に住んでいる、と感じた
|
|