T 文政二年七月十五日早朝、長岡藩主牧野忠精はわずかな供回りを従えただけで、領内巡察のため城を出発した。目的は、新潟を視察し、新川堀削工事を見、円上寺潟干拓工事を巡視したのち、国上山の国上寺に参拝をするためである。 忠精は寛政の改革で知られる松平定信に見出された。幕府の要職を歴任したのち定信の失脚後も、享和元年より文化十三年まで、十五年間の長きにわたって老中をつとめ,松平信明とともに寛政の遺老と称されたひとりであった。老中を免じられてからすでに三年が経っていた。今年齢六十である。 定信に見込まれ抜擢されただけに、聡明絶倫、文武両道の人であった。七歳の幼少より藩主に就き、長年藩政に腐心し、幕閣に座していたためか、威おのずと人を圧し、近寄り難い雰囲気を漂わせていた。人に笑みを見せることはめったにない。 残暑のなか、各所の視察を終え、後は国上寺に参拝を残すのみとなった。が、忠精の本意はここにあった。良寛という不思議な僧に会うためである。いや、厳密な意味でいうならば僧とはいえないだろう。良寛自身、沙みにもあらず、俗にもあらず、と称しているからである。だが、国上山に住み着いてから二十有余年の間に、村人に愛され、声望おのずから高まっていた。 いつのころからか、忠精の耳にも入ってきていた。詩や書に優れ、無類の正直者であり、童に好かれ、そのたぐいの逸話も数多い。忠精が心引かれたのは、五合庵という質素な庵にひとり、およそ二十年という長きにわたって住み続けていたことであった。もともと五合庵とは、江戸時代初期、国上寺の中興の祖といわれた萬元上人の隠居所であった。一日、五合の米で暮らす閑静清貧の生活を意味するところから、そう名付けられたということだ。だが、六畳一間きりであり、夏はやぶ蚊が多く、さらに雪深い厳しい冬を越すのは容易ではない。 いまはその五合庵を出て、国上山の麓に近い乙子神社の社務所に住んでいる。そこも、間口三間四方の十八畳ほどのひろさで、村人の集会所を兼ねている粗末なものであった。 住まいを移した理由を聞き及んだとき、忠精は思わず口の端に笑みを浮かべた。 庵の側に小さな厠小屋がある。床下から筍が生えあがってきて天井につっかえそうになり、それをあわれみ茅葺の屋根に手燭で穴を開けてやろうとしたが、その火が燃え上がり厠小屋を全焼させてしまった為ということだ。さすがの良寛も厠がなければ、生活はできない。忠精は、良寛の軽率をなじる気にはなれなかった。いまだ一瞥もなかったが、人間としての天真爛漫を感じ、無条件で愛した。同時に、一肌脱いでやろうと考えた。すぐさま家臣に、城下に菩提寺の建立を命じた。良寛をその住職にさせようとしたのである。忠精は久しぶりに、わくわくとした思いをいだき、己の計画にひとりほくそ笑んだ 。
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