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作品名:二匹の羊 作者:じゅんしろう

第1回   1
 この話は支那の国の出来事である。
 蘇州の料理店で長らく屠殺の業にたずさわっていた安甲という男がいた。がっしりとした体格の大男である。三十歳代の半ばになるが、いまだに一人暮らしの寡黙な男であった。
 ある日、母羊とその子羊とを料理するために、まず母羊を縛って台に横たえ、刀を持って振り下ろそうとしたとき、ふと、かたわらに繋がれた子羊を見ると、安甲に向かってひざまずき目に涙を浮かべていた。まるで母羊の殺すのを思い止まってもらおうと訴えているかのようだった。だが、安甲はそれが自分の思い過しであろうと思い、母羊の屠殺にまた取り掛かろうとしたとき、室の外から主人に呼ばれたので出ていった。
 すると、子羊は母羊が縛られている台に寄ると、前足を台にかけ、安甲が置いていった刀を必死にかき寄せ下に落とすと、刀の上に身を横たえて隠した。
 室に戻ってきた安甲が、刀が無いのであちらこちらと探したが見つからない。不思議なことと首をかしげ、子羊のほうを見ると、その下からわずかに刀の先端らしきものが見えたので、子羊を押しのけると、果たして刀であった。立ち上がった子羊は目に涙を浮かべながら、安甲にまるで懇願するように何度も頭の上げ下げを繰り返した。そこで安甲は、子羊がどこまでも母羊を守ろうとしていることを悟ったのである。安甲が母羊の縄を解いてやると、親子は身を寄せ合い頬ずりをして、無事を喜び合っているようであった。
 安甲は何かを感じ、主人に申し出てこの羊の親子を譲り受け自分の家に連れ帰った。その後、屠殺を生業とする気が無くなり店を辞め、なにもせず羊の親子と暮らした。
 安甲は、親の顔も知らない天涯孤独の身の上であった。無論家族の団欒なぞ知る由もない、世の中の辛酸をなめつくしていた。
 羊の親子と暮らし始めてから、安甲の心の何かが変わったが、それが何なのかは分からなかった。もやもやとした思いが、頭の中を漂っているだけである。ただ、じっと考え込んでいる安甲の傍らにいつも羊の親子がいた。安甲を信頼しきっている様子であり、羊の親子との暮らしは安らぎを覚えさせるものであった。安甲が手招きすると、子羊はすぐに寄ってきて、安甲を下からじっと見つめた。その目は何処までも透明で吸い込まれていきそうな錯覚を覚えた。安甲は子羊の首に腕をまわして顔をすり寄せた。子羊はじっとしていたが、わずかに首を母羊に向けると、母羊も起き上がり安甲に身を寄せてきた。このような日々が続いた。


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