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作品名:路地裏の猫と私 作者:じゅんしろう

第62回   62
手術の跡は、じんわりと痛む。身体に施されている点滴の管や容器を見やった。ビニール製の容器から液体がわずかずつ管に落ち、私の体内に入ってゆく。私は患者なのだとあらためて思った。少し感傷的になりゆっくりと目を閉じた。もう一度私は患者なのだ、と心の中で呟いた。
 ふと、我が家の横の猫ハウスで暮らす住猫たちのことを考えた。ノラ猫はぬくぬくと暖かい家で住む飼い猫と違い、寿命が短い。毎日、雨露をしのぎ食物を得るためにきゅうきゅうとしている。いつも真剣勝負といえるのではないだろうか。何度も、病気や怪我で死んでいったノラ猫をたくさん見てきている。運の好いノラ猫だけが、篤志家によって手当てを受けることができる。
 今の自分は似たようなものではないか、と思えてきた。ノラ猫ではないが、今の境遇は、いわば妻に飼われている猫といったところではないだろうか。
 ちかごろ、熟年離婚ということがかまびすしい。妻に放り出されないようにおとなしくしなければならないのか、と思うと自分が情けなくなってきた。俺も猫と同じかと思った。せいぜいノラ猫にならないように、飼い猫の身分を保つように心がけよう、とも思った。
 なんとなく落ち込んでぼんやりとしていたら、「よう、どうだ」という声に我に返った。
顔を上げると碁敵の鳴海という古い友人だった。いつも鬼瓦のように、苦虫をかみつぶしているような顔をしているので、私は密かに鬼瓦というあだ名をつけている。 「うん、見てのとおりだ、まだ生きている」と虚勢を張って返すと、「うん、そのようだな」と、いつものように修飾語を一切つけずにいった。 まあ、座れ、といって傍らにある椅子を指し示した。
 鳴海は座ると無遠慮にも点滴の器具を上から下まで見、その管で繋がられている私の全身を見た。
 鳴海は現役の裁判官である。物事を何事もしっかりと検証しなければ気が済まないのかもしれない。
 「大丈夫のようだな」と鳴海は私の心身を察したようにいった。
 「うん、さばさばしている」 「ほう」 私は父の癌のことをいい、以前からの心構えを話した。
 「そうか、それならば安心したよ」といって、ほんの少し笑った。
 今度は私が、ほう、と心の中で思った。
 鳴海のほんの少しの笑いは、めったに笑わぬ鳴海にとって、常人の破顔に相当するからである。
 あにはからんや、相当心配してくれていたのかと、内心嬉しかった。
 後はお互い話すことはない。一言、二言言葉を交わすと、背広のポケットから見舞いの熨斗袋をだし手渡してくれ、「はやく、また一局打とうや」といって帰っていった。
 お世辞や愛想のいえない鳴海らしい態度だったが、嬉しく余韻が残った。
 妻にはできるだけ内密にしておいてれ、といっておいたが、何処で聞きつけたのであろうか。しかし、咎め立てをする気はない。手術後の自分の心境の変化を感じた。

 


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