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作品名:路地裏の猫と私 作者:じゅんしろう

第58回   58
V
 次の日の午前中に、レントゲン検査をした。後は明日の手術を待つだけである。
 ベッドに横になっていると、入口の方から聞き覚えのある声が聞こえてきた。妻の兄たちである。 「おっ、いたいた」と長橋町に住む長兄の竹内和夫氏。ざっくばらんな性格の人で、割合いいたいことをいう人である。この人は緑町に住んでいた子供時代、何に腹を立てたのかは知らないが、父親の空気銃を持ちだし、石原裕次郎の家にぶっ放し、窓ガラスを割った張本人である。その為、裕次郎の母親が怒鳴り込んできて、大騒動になったということだ。あの時の親父の拳骨は痛かったと、当時を思い出してか、頭を擦りながら話してくれた。
 「やあ、お元気そうですね」と次兄の治朗氏。この人は札幌に住んでいて、長兄に比べて礼儀正しい言葉遣いをする人である。
 と、義母の敦子さんがすっと側に寄って来て、うむ、と頷き、「大丈夫、心配ありませんよ、神様にお伺いを立ててきましたからね」といって、真っ白い髪の毛とは対照的な黒い目で私をじっと見た。
 じつは義母は神道系の宗教に入っていて、義母が足を骨折した時も、神様に守られているからこの程度で済んだ、といっているとのことだ。私はこの義母になんとなく弱い。だから私も神妙に頷き返した。
そこへ、麻酔科の女性看護師が手術用の青い服に白い服をまとってあらわれ、明日の手術についての説明をしはじめた。
 私はいよいよだなと少なからず緊張した。 私の気持ちを知ってか知らずか、その看護師は終始笑顔を絶やさず、優しく説明してくれた。最後に、好きな曲があればおっしゃってください、といった。手術をするとき、患者にリラックスさせるために曲をかけるのだという。 「では、マスカニー二のカバレリア・ルステカーナをお願いします」というと、「あ、すみません。それ、ありません」といわれた。 何があるのと、と訊くと、クラッシックならビバルディの四季しかありません、とすまなそうに答えたので、ではそれで、と頼んだ。 「皆さんはそのとき、どのような曲を希望するのですか」と次兄。 「はい、ポピュラーな曲ですね」   「うむ、では純一君はポピュラーではないんだ」と長兄。
 看護師は少し困ったような笑い顔を作って、「では、明日お待ちしております」と、料亭の女将のような科白をいって去っていった。 「あなた、何を変なことをいって」と長兄の嫁さんはいい、私に済まなそうな顔でお辞儀をした。
 明日は義母や長兄が立ち会ってくれるとのことだった。後はさしたることもないので帰っていった。帰りながら、長兄が次兄に、「今日は車か?」と訊き、「いや、汽車だ」と次兄。 「「じゃ、久しぶりだ、ちょつと一杯やるか」 「うん、それもいいな」と、二人は私の喉が、ぐぐぐっと鳴るような会話を残して去っていった。
 私が十日間は酒を絶たなければならないという前代未聞の状況で、悲壮な決意をしているというのに、こんちくしょう、と胸のうちで悪態をついた。
 


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