家に帰ると玄関前で、出掛けに出しておいた昨夜の魚の煮つけの残りを、顔が黒と白模様の若い猫がしきりに食べていた。この猫は私の最近のお気に入りで、ジローと名付けている。少々愛嬌があり、わざと玄関の戸を開けてやると、中を覗いたり、さらにはそっと入ってきたりしてノラ猫の中では警戒心のないほうだった。ただし、ジローといっても振り向いてはくれない。これで振り向けば、飼い猫になれる要素があり、ノラ猫で終わるかどうかの境目なのだ。私は飼ってやりたいと思っていたのだが、妻にいわせると、この路地裏のすべてが飼い猫同様だという。それに一匹だけ飼うと、それこそ差別だという妻の理屈に、なんとなく納得してしまう私だった。 妻に、「やはり癌だった。明後日入院することになった」というと、「そう、いろいろ準備しなければならないわね」と案外淡々といい、入院の資料を読みはじめた。 私は大げさに驚き、蒼ざめて両手で顔を覆って泣き出す、という図を思い描いていたのであるが、期待外れに終わった。女はいざというとき、男より図太い神経を持っていると承知していたが、これもそのひとつであろうか。 妻は熱心に資料を読んでいて、お茶を入れてくれそうもないので、仕方がないから自分でいれて飲んだ。 ふいに、「兄さんに連絡しなければならないわ」といった。 私はあわてて、「十日間くらいの予定なのだから、内緒にしておいてくれ」というと、「手術承諾書には、別所帯の署名捺印が必要なのよ」という。 これで人知れず入退院して、何食わぬ顔をして通常の生活に戻るという計画は頓挫した。 早速妻は義兄の家に電話を掛けた。 「もしもし、義姉さん。じつは…」 妻は普段は割合のんびりとしているのであるが、何か事が起きると素早く行動を起こす。その時点で、主導権は妻に奪われるのである。 妻の実家は長橋町という郊外にあり、元は牧場を営んでいた。いまは義母と義兄夫婦が住んでいる。 義母の敦子は九十歳をとうに越していて、つい去年まで畑を耕していた。 止めた理由がふるっていた。 両目が白内障になり、札幌の有名な眼科で二週間の予定で入院治療することになった。片目を手術し、翌日もう片方の目を手術するという夜半、尿意をもようし一人でトイレに向かった。急いでいたのと廊下が薄暗かったために、曲がり角に右足を強打して転び右の太腿を骨折してしまい、そのまま近くの整形外科に入院手術ということになってしまったのである。結局、そこで二カ月入院し、治った後また眼科に戻り、もう片方の目を手術した次第である。
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