じつは、私の父は食道癌で亡くなっていて、父方の叔父や従兄弟たちも癌で亡くなっている。したがつて、私の家は癌系統の家系ということは分かっていたので、今日あることは覚悟している、というものを持っていた。六十代という年齢では、いつ癌になっても不思議はないのである。自分でも意外とさばさばとした気持ちだ。ただ、はっきりと結果が分かるまで、子供たちにはいうなよ、と念を押しておいた。娘と息子は、それぞれ東京と大阪で所帯を持っている。 「うん、分かったわ」と妻は小さな声でいった。日頃と似合わない声をだしたので見ると、少し泣き顔になっていた。 三十年以上連れ添った妻である。はあ、年をとったものだなあ、とあらためて思ったが、私も同じように年月を重ねてきている。なんとはなしに、長い年月を一緒に生きてきたのだなあ、というのがその日のいつわりのない感想だった。 月曜日までの三日間は至れり尽くせりだった。食事も好物を作ってくれ、身の回りのこともすぐに気がついて世話を焼いてくれた。痒いところに手が届くとはこういうことかと内心可笑しかったがおくびにも出さず、うむ、と頷くだけで用が足りた三日間だった。癌になることもあながち悪いことではないなあ、としようもないことを考えたりした。 U 月曜日の朝、私は公約どうり一人で病院に行った。いまは予約制になっていて、着くとすぐに診察室に案内された。 綿貫医師は、「大石さん、結果がでました。やはり乳癌です」とあっさりといった。 「はあ、男にもあるのですねえ」というと、「ええまれにあるのです。女性ホルモンが多いようですね。ただ、普通は高齢の方が多いのですが、大石さんの若さでなるということは極めてまれです」というので、「はあ、すると私は女になりそこなったということですな」といってやると、側に控えていた女の看護師がくすりと笑った。 この看護師という名称も、以前は看護婦だったのを男が進出したり、男女差別だとかでこうなったが、どうも響きが良くない。私なんかは、看護婦ならばナイチンゲールを連想してしまって厳かな気持ちになるが、看護師だったらロボットよろしく、なにか修理でもしてしてしまうような味気なさを感じてしまう。 綿貫医師は、私の癌についていろいろと熱心に説明してくれた。手術は早い方が良いという。一番早い手術日は今週の金曜日だというので、ではそれでお願いします、ということで入院は水曜日に決まった。帰るとき綿貫医師は、頑張りましょう、といった。これはひとつの決まり文句のようだが、内心何を頑張るのかと思った。 入院についての説明は別の看護師が説明してくれるという。診察室を出ると、長椅子に別の患者が控えていて、はい次の方という声に入っていったので、まるでトコロテンのように押し出されてような気になった。 看護師から入院の説明を受けて病院を出た訳であるが、悲壮感というものはなくサバサバとした気持だった。自分の年齢ということもあるが、この年になって男の平たい乳房を取ったって、どうということもないと思った。
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