T 昨年の春、私の左乳首のあたりに小さなしこりがあるのに気がついた。最初、出来物くらいに軽く考えていたのであるが少々気になったので、年一度の健康診断のおりに近所の開業医に診てもらった。 「ふむ、なるほどありますなあ」と、鼻から頬にかけて白い髭を生やしている老齢の医師はしこりを触りながらいった。 「しかし筋肉には付着していないので、癌ではありませんなあ。三ヶ月くらいたって、いまより大きくなっているようでしたら、専門の医者に診てもらったほうがいいでしょう」といい、さも珍しそうにして首をひねった。 私は乳癌といえば女性の病気と思っていたから、男性の場合は極めて珍しいという医師の言葉もあり楽観していた。 実際三か月後、大きさは変わらなかったので、ほったらかしにしておいた。妻もまさかと思っていたのか、何もいわなかった。だが、夏が過ぎたころあたりから触ったりすると痛みを覚えるようになった。鏡で見てみると少し大きくなり赤みを帯びていた。しかし、妻にいわれても素人判断で、癌の場合は痛みは伴わないはずだとか、せいぜいたちの悪い出来物だろうとか、自分に都合のいい理由をつけては、無理やり楽観視していた。 だが、年が明けたころには、どうにも言い逃れできないくらい、しこりが大きくなり変形して痛みが伴ってきた。それでもぐずぐずして日が過ぎていったのであるが。ある日、妻にうながされて近くの市立病院の外科で診察してもらうことにして一人で行った。。 外科の男性医師は綿貫という名前で、四十歳代の童顔ではあるがみるからに現役ばりばりといった印象の人だった。。 「この大きさといい、色といい、まあ、癌の疑いが強いですなあ。まあ、とにかく細胞検査をしてみましょう」と綿貫医師は注射針を私の胸に、ぶすっと刺した。 私は恐る恐る癌なのでしょうか、と伺いを立てると、「ええ、経験からいいまして、まず間違いないでしょう」と綿貫医師は明るくいい放った。実にあっさりとしたものである。 昔は癌といえば、本人には隠し通し、身内のしかるべき人にこっそりと知らせる、というのが通り相場と心得ている私にとって、いささか意外以上のことであった。訊くと、今はパソコンのインターネットなどにより情報が知れ渡っていて隠すことは困難であり、癌告知を本人にするようになったということである。大きく時代が変わった、ということを実感した。それとも私が時代の潮流に鈍感なのであろうか。検査結果が分かるのは次週の月曜日だという。
|
|