坂本さんはがっしりした体格の、胡麻塩頭の七十歳前の人だった。ひと通りのあいさつを交わした後、「今朝、猫に餌を与えてもらうのを頼んでいた女性から電話があり、大石さん(私の苗字)の向かいの田中のばあさんから、もう猫に餌を与えるのは止めてくれと、えらい剣幕でいわれ餌場も処分されてしまったとのことでした。そこで、いまその婆さんと話をしてきましたが、猫の糞やそれにたかる蠅が汚いということは分かるのですが、そのほかのことについては何か訳の分からないことをいったりしてとても承知できません。じつは私の弟が亡くなったとき、考えることがありまして、供養のために弟が好きだった猫に餌を与えるようになって二十年…」と、いくぶん興奮気味に早口で自分の主張を述べ、ついてはまたあらためて餌場を設けさせてほしいとのことだった。田中のばあさんとかなり言い争ってきたようである。 「田中さんのいう猫の糞や蠅の問題も一理あることですし、この家と隣の倉庫の間はすこし広いですから、そこに餌場を設けたらどうですか」との私の提案に、坂本さんも、ぜひそうしていただけるならば、と受け入れてくれた。 その後、いろいろと話をした。それによると、古美術商をしていたがリタイヤ後、一人娘がカナダ人と結婚して、カナダのバンクーバーに住んでいるので、坂本さんもその地でマンションを買い、年に何度か奥さんと行き来しているとのことだった。それで日本にいないとき、女性に協力してもらっているという、思いがけない定年後の生き方に、どう定年後を生きようかという説計を描くことができないでいる私にとって、軽い羨望を覚えさせてしまうものだった。聞いてみなけれは、人の生き方は分からないと、つくづく思い、またわが身を省みてしまった。
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