「ほう、それは知らなかった。面白い話だね」と私は驚き、あらためて境内を見渡した。先ほどの海陽亭を見学したとき知った、徳川慶喜が小樽を訪れたということを考えた。 永倉新八は大正四年に亡くなっているという。それならば、仮に慶喜が小樽に来ているということを新聞記事などで知ったなら、どう思ったかと。慶喜にあって、鳥羽・伏見の戦いの後、家臣を見捨てて江戸に逃げ帰ったことにたいして、文句の一つでもいいたかったのではないだろうか、と思った。慶喜は家康以来の傑物と期待されたが、貴人情けを知らず、の典型ではなかったのではないだろうかとか、しばしあれこれ思いめぐらした。 大石さん、と呼ばれて我に返ると、谷藤さんが次回の坂道探索には荒田氏も一緒に歩いてみたいということだった。 「ああ、それは大歓迎ですよ」 「街道をゆくに対抗するには、スケッチを描く人も必要でしょう」と、荒田氏はすっかり乗り気になっていた。 「その後のビールも上手いしね」と鳴海は少し顔を紅くして軽口をたたき、トイレにいった。鳴海は酒が入ると、少々人が変わるのかもしれない。 その間、私は永倉新八のことを詳しく訊いた。新八は元松前藩士で、維新後北海道に逃げ帰り杉村義衛と名を改め、この水天宮近くの花園町というところに住んだ。息子に小遣いを貰っては、当時住ノ江町というところにあった遊郭で芸者を挙げて遊んだりして、晩年もかくしゃくとし、畳の上で往生して生涯を終えたという。 「いやあ、恐れ入ったね。近藤勇や土方歳三など、多くの新撰組の浪士が戦いの中で亡くなっていったことを考えると、畳の上で死ねるということは幸せなのだろうね」 私がそう感想をいっていると鳴海が戻ってきて、「石川啄木の碑があるね」という。どんな詩と訊くと、「悲しきは小樽の街の人々よ歌うことなき聲の荒さよ」といった。 それを受けて、谷藤さんは啄木も花園町に明治四十年十月から四十一年一月までのわずかな月日であるが住んでいたということだ。 「それならば、啄木と新八はもしかしたら顔を合わせていたかもしれないね」と荒田氏がいうと、私だけでなくほかの皆も同時に、おおっ、と声をあげた。そうなると、啄木は新八と孫との剣術の稽古を見たという想像も成り立つかもしれない。そう考えると、この水天宮の境内からにわかに明治の息遣いが聞こえてきそうな錯覚に陥った。 我々三人は、もう少し描いているという荒田氏と別れて水天宮から花園町に向かって降りて行く。いくつか小さな通りと交差していて、職人坂と称されている趣きのある坂道の標識があった。それは次回以降の楽しみとして横目に見ながら通り過ぎ、繁華街になっている十字街で散会したが、皆良い笑顔になっていた。 私は道を左にとって帰路につく。その道々考えた。そのひとつひとつの坂道にそこで暮らす人々の歴史がある。そこにはトキとしておもわぬ広がりを私に見せ、想像を掻きただせずにはおかないものもある。といって、焦らずすぐにライフワークに結び付けようとすることもあるまい。まず、皆と一緒に小樽の坂道探索を楽しめばよい。そのうちに、おのずから答えが見えてくるかもしれない。そう考えると、なにか一筋の光明を得た思いがした。 ビールの心地よい酔いが残っていて、幾分上気した身体を我が路地裏に現すと、家の前で妻が前方を見ていた。 「どうした?」 「あら、お帰りなさい」といって、少し離れた幾分繁りだした草むらを指差した。 そこではポン太がしきりに両方の前足を動かしていた。と、何かを掴むと、そのまま体全体で高く放り投げた。さらにそのまま沈みこむと、また高く放り投げた。 「何をしているのだろう」 「さっき、いつも餌を持ってくる女性が来て、ちくわをあげていったのだけれど、帰ったあとで見てみると、さっきからああなのよ。まるでダンスを踊っているみたいね」 なるほどいわれてみれば、そのように見える。 「ほう、猫のダンスか。楽しそうだなあ…」 「ええ、本当に…」 ポン太も春の宵に浮かれているのであろうか。 私と妻は駘蕩とした思いの中、繰り返しおこなわれているポン太のダンスをいつまでも飽きることなく眺め続けていた。
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