次に明石の間という百六十畳の大広間に案内された。部屋を見渡してみると、随所に贅を尽くした凝った造りが見られ、往年の盛況が偲ばれた。 この部屋で日露戦争後の樺太分割の策定会議を終えた後、大宴会が催されたという。そのときのセピア色の写真も飾られていて、外務大臣の小村寿太郎も写つていた。天井に華やかな万国旗が飾られ、演台に紅白の幕が張られているので、案内の女性に、それを記念してのことかと問えば、最近石原裕次郎に関係したテレビロケがおこなわれ、そのままにしてあるだけだと答えた。 部屋からは港が一望できる。三人並んで見ていたら、女性が、亡くなられた裕次郎さんもお見えになると、よくここから港を見られていたのですよといった。谷藤さんは裕次郎が海陽亭を贔屓にしていたことはよく知っていて、女性といろいろと話をしだした。鳴海は黙って聞いている。しからばと、私もとっておきの話をすることにした。 「じつは昔、私の家内の家が裕次郎の家の筋向いに住んでいたのですよ」という私の言葉に皆一斉に振り向いた。 「本当でございますか」と女性はさも驚いたというように目を丸くした。 「ええ、家内の兄が当時のことをよく覚えていて、義兄か何に腹を立てたのかは分かりませんが、家にあった空気銃で裕次郎の家にぶっ放し、窓ガラスを割ったら裕次郎の母親が怒鳴り込んできたとか、やんちゃだった裕次郎が近所の娘さんに悪戯をしたとか、いろいろと面白い話があるようですよ」 「へえー、世間は狭いというけれど本当ですね」と谷藤さんがいうと、「うむ、大石はいままで一度もいわなかったけれど、世間との繋がりというものはそのようなものでしょう」と鳴海はいい、また部屋をゆっくりと見渡した。 一階の喫茶店に裕次郎コーナーがあり、長嶋茂雄のここを訪れたときの写真があった。二人は友人だったと聞いていたので、偲んでのことだろうか。軽くひとわたり見て我々は引きあげた。玄関先まで案内の女性が見送ってくれたので、そこで皆と写真を撮った。 三本木急坂を降りきると、小樽オルゴール堂という倉庫を利用した建物があり、観光の目玉のひとつになっている。谷藤さんの説明によると、小樽が運河保存の論争を経て全国的に有名になる前は、米屋や家具屋などいろいろと遍歴をしたが何をやっても商売にならず、上手くいかなかったということだ。いまは人々でごった返している。時代が変われば、どうなるかは誰も分からない。昔は盛況であったろう海陽亭とはいくらも離れていないのに別世界の感があった。
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