そのすぐ下に海陽亭という古い料亭があった。いまは特別なことがない限り、普段は料亭としての営業はしていないが、有料で見学できるというので入ってみることにした。玄関口までは少し急な坂である。重厚な雰囲気を漂わせた玄関前で、すでに何度か訪れたという谷藤さんが料亭の歴史と由来を簡単に説明してくれた。伊藤博文など明治の政治家が何人も来ているとのことである。 中に入ると、途端に明治時代にタイムスリップしたかのような思いにとらわれた。 我々がその雰囲気に浸っていると、薄い水色の和服をきりりっと着こなした小柄で太めの福々しい顔立ちの六十歳代の女性が現れた。見学の旨をいうと案内してくれるというので、料金を払って後についていった。 二階の七十畳もあるという松風の間という広間に導いてくれた。天井が高く、明治時代に造られたというガス灯のシャンデリアが吊られていた。部屋の万科には大きな屏風が立て掛けられていて、ここを訪れた著名人の色紙や写真が飾られていた。多くはすでに故人となられている高名な作家や芸能人のものが多かったが、日本人以外では、アラン・ドロンも来ていて先代の女将と一緒に納まっている写真があった。予想以上に多くの人々が小樽を訪れていることを知った。昔、小樽は北の商都として栄えていた証しなのだろう。部屋の右側には、伊藤博文と朝鮮の皇太子が使用したという豪華な布団も展示されていた。その後、朝鮮が日本に併合される訳であるが、皇太子はどのような気持ちで一晩過ごしたのであろうかと、複雑な気持ちになった。さらに反対側の壁際に目を移すと、江戸時代の最後の将軍徳川慶喜が、最晩年の大正二年に訪れていて、自筆の短冊が飾られていたのには正直驚いた。私は日本史が好きで、幕末のころの小説などの書物は相当読んでいたのであるが、まさか小樽を訪れたことがあるとは思いもよらなかった。しばしその所に見入ったが、残念ながら全然読めなかった。案内の女性に読みを訊いてみたが知らないといった。その当時は分からないが、読み方が伝わっていなかったのか、いまではこの料亭の関係者で読める人はいないとのことだった。 写真は自由に撮って良いとのことだったので、谷藤さんはしきりにシャツターを切っていた。鳴海といえば掛け軸の書や絵に、じっくりと見いっている。三人三様でこの部屋を堪能しているということである。こころみに、鳴海に慶喜の書が読めるかと訊いてみたが、さすがの鳴海も読めないといった。専門家でなければ無理なようである。
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