見送りの後、ふと見ると、路地のはずれの一角に中年の女性がパケットを持って佇んでいた。 迷子の猫を探している人だと合点がいったが、よく見ると足元に何匹かの猫がいるようだった。 気になったので近寄ってみた。女性は細面の浅黒い顔で眼鏡を掛け、ほっそりとした身体をしていた。その足元には、普段、人になっくことがない何匹かのノラ猫が、餌を与えられているわけでもないのに、しきりに女性の足に体をすり寄せていた。 「迷子の猫は見つかりましたか」と訊いてみた。 「いえ、見つかりません。このあたりで見かけたという人がいたので、探しに来たのですけれど」と、女性は訥々とした口調でいい、その猫の特徴を私に説明しだした。 わたしは、残念ながら似てはいるが違う猫であることをいい、詳しく説明した。 「祝津から来たのですけれど、残念です」 「ほう、わざわざ祝津から」と、私は先ほどの鳴海の話を思い浮かべながら、とぼけていった。 「この近くの人に譲ったのですけれど居なくなったというので、気になって気になって、探しに来ましたの」 「見つけたら、またその人に返すのですか」 「いえ、家に連れて帰ります。本当はすでに十二匹の猫がいて、いっぱいなのですけれど、そうはいっていられません」と、一緒に探さない譲った人の不実を、すこしなじるようにいった。 「十二匹も飼っているのですか、凄いな」と、私は驚いていった。 「ええ、これ以上増えるのは大変ですけれど、でも仕方がありませんわ」 女性はそういいつつも、気がかりそうにまたあたりを見渡した。 その間、ノラ猫たちは一様にその女性の足元にまとわりついたままである。 私は腰を落として、試みにノラ猫にそっと手を伸ばしてみるとなんなく触ることができた。 おもわず、「触れた」というと、「猫も好きな方が分かるのですよ」と女性はいった。 そうではない、貴女がいるからいるからノラ猫は安心して私に触らせているのだ、と心のなかで思ったが、この不思議な状態はどういうことなのだろうと、改めて考えてみた。 私がときどきノラ猫に餌を与えても、触ろうとすると逃げてしまうのに、この女性は餌を与えているわけでもないのに、ノラ猫の方からしきりに体をすり寄せてくる、この差はいったい何なのか、と思わざるをえない。初めてこの路地裏にあらわれた女性にこうも親しげにすり寄ってくる。まるで猫の精のようだと思った。このような人もいるのかと、自分で自分を納得させ、この場から離れて家に帰った。 妻にこの女性のことを話すと、妻は出窓に身を乗り出し路地裏の様子を窺がっていたが、「もう居ないみたいよ」といい、さらに、「童話のムーミンにでてくる、スナフキンみたいな女性ではないかしら」といった。 「スナフキン?あれは男だろう」 「でも、私が会って話をしていたときもなんとなく何かを感じていたが、あなたの話を聞いて、それが何なのか分かったわ。そのような雰囲気を私も感じていたのよ」 「ああ、そうか。スナフキンは放浪の旅人で、森の精のような感じだったが、あの女性に猫の精のようなものを感じたのは、どこか似た雰囲気があったからだな」とひとり合点がいった。 じつは、私と妻は四十年ほど前にテレビで放送されたムーミンの大不安であった。 猫や犬などは本当に自分が好きな人が分かるのだろう。生半可の好きでは駄目なのであろうか。動物は鋭い嗅覚で嗅ぎわけるのかもしれない。 人に限らず、すべての生き物の不思議さというものは、計り知れないものだということを改めて考えさせられた。 それから何度かこの路地裏で、その女性を見かけたが、ついに諦めたのであろう、一カ月を過ぎたころくらいから見かけなくなった。 妻はときどき、ひとり思い出し笑いをしたり、はなはだしいときは、飲んでいたお茶を噴き出したりしたことがあった。理由は分かっている。鳴海の青春の一コマ、祝津での落語のような土座衛門騒ぎのことである。 それも、猫の精のような女性があらわれなくなったころ、自然に止んだ。
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