「はい。想像するに、何人もの子供を抱えて日々の生活におわれているわけですから、足腰も丈夫で太めの女性ではないかと考えているのです」 「私みたいな?」と妻がそういいつつ、新しいお茶を入れ替えるために、二の腕をにょっきりとつきだした。 妻は若いとき、割合にほっそりとした体型であったのであるが、子供を産んだあたりから少しづつ肉がついてきて、今はボリュームたっぷりである。 「いや、そういうことではないのですが」と、宮下は頭を掻いた。 「肖像画のとおりでいいのじゃないの」という妻の言葉を制して、「いや、宮下君のいうとおりかもしれないぞ。たとえば、女優でいえば誰だろう?」 宮下はすこし考えた後、「あき竹城なんかはぴったりではないでしょうか」 まあ、と妻と佳乃さんはお互いの顔を見合せながら、同時にいった。 「ほう、あき竹城ね。いい線ついているじゃあないか」 「どうしてマリアが日本人なのよ」という妻のいささか呆れた問いに、「たとえばの話」と一蹴しつつ、私はだんだん面白くなってきた。 「あき竹城は、たしか山形県出身だろう。そうなれば山形弁だね」 「はい、ずうずう弁ですね」との宮下の相槌に、三十年連れ添って私の思考回路を熟知している妻は、すぐに察したようで呆れ顔になった。 「そういう顔をするけれど、方言こそ生きた人間の言葉だよ。マリアだって然り。標準語といったって、本当の気持ちは伝わりづらいものだ。標準語と身振り手振りでどれだけ話をするより、たった一言の方言と一動作で、その人の思いがすべて理解できることもあるしね」 「それはそうだけりど、だからといったって聖母マリアがずうずう弁を喋っていたというのは変じゃないの」と妻は佳乃さんの方を見ながら、同意を求めるようにいった。佳乃さんも相槌をうつ。 「いや、それは譲れない。ずうずう弁というよりも、マリアもそうだが、キリストが人々に教えを説くとき、当然生まれ育った地域の言葉で喋るはずだ。人の心をうつということは、言葉の響きが大切な要素だ。そうでなければ気持ちが伝わらないはずだからね。標準語は共通語としてはよいが、自分の考えや思いを伝えることについては、必ずしも優れているというわけではない」と私が教員時代の授業のときのような調子で自説を説くと、宮下も生徒のときのようにうなづいた。 妻と佳乃さんは分かっているのか分からないのか、あいまいな表情をするだけであった。聖母マリアのずうずう弁には抵抗があるようだ。 「それにだ、たとえばキリストが子供のとき、わんぱくで遊びまわっているような子だったとするだろう。マリアが弟たちを引き連れて、キリストを見つけたとする」 妻以下、何をいい出すのだろうという顔をして私を見た。 「こら、キリシト。おめいはあんちゃんなんだから、おんちゃんたちの面倒をみなけりゃ駄目ではねんだすの、と、叱り付けたとする。その言葉はやはり、その土地の方言だからこそキリストの心にずしりと堪えると思うのだ、うん」 途端に、宮下は吹きだしたが、妻は恥ずかしそうにして顔を下に向けた。
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