「では何ゆえに、娑婆に戻ることの判断をお梅自信にゆだねたのでありますか」 その親鸞の問いに、観音菩薩は一瞬、微かであるが苦渋の表情をあらわした。 「試したのじゃ。が、お梅が娑婆にに戻るというのは分かっていた。お梅の口から、そう言わせたのじゃ。これは阿弥陀如来様の思召しなのだ」 「えっ、阿弥陀如来様の…。それはどういうことでありましょうか」 「うむ、わたしが阿弥陀如来様にお伺いをたてたときのこと。伊右衛門は悪党であり、お岩は亡霊になってまで復讐を遂げた情のこわいおなご、この二人はいたしかたない。が、お梅はまだ小娘だったことでありますから、反省させてこのまま浄土に留めてはと進言したのだが、阿弥陀如来様は即座に、それはならぬ、と却下された。が、わたしも永きこと人々の救済の任にあたってきた。その点をご考慮いただき、では、お梅に決めさせよ、とおっしゃられた。だが、結果はみてのとおり。阿弥陀如来様はお見通しであった。厳しいお方じゃ。わたしも、もそっと修行せねばなるまいて」と言うと、目を閉じ合掌した。 親鸞は身体が微かに震えるのを感じた。 しばし沈黙のときが流れたが、親鸞は聞くべきことは聞かねばならぬと考えた。 「それにしても伊右衛門の体たらく、あれはいかがしたことでありましょうか」と、親鸞が首を傾げながらそう訊くと、観音菩薩は口もとに微かな笑みを浮かべた。こんどは親鸞にもそれが見てとれた。 「親鸞よ、男というものはおなごに比べて可愛いものよ。どのような悪党でも根はあれじゃ。娑婆での苦しみが、骨身に沁みているとみえる。お梅に口説かれて、うかつにも娑婆のときの優男のころのことが、蘇ったのであろう。蓮華を隣り合わせにしてもらおうとの話に乗ったばかりに、このようなことになってしまった。哀れな奴じゃ」 観音菩薩はまた眼を閉じ印を結んだ。 「観音様、あの者たちに輪廻転生の業を与えるとおっしゃいましたが、娑婆世界に戻ることが業なのでございますか」 「娑婆は喜怒哀楽の迷界なり。ときとして、生き地獄をみることになる」
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