「親鸞も承知のように、阿弥陀如来様の本願を超える悪はありませぬから」 「閻魔大王はどうしているのですか、それに鬼たちは?」 「この間、久しぶりにご機嫌伺いに訪れたのですが、亡者が来なくてもめげずにせっせと閻魔帳に悪人の悪行を書いておりました。その数は、数十兆冊になっているとのこと。それを鬼たちが整理しているのですが、置き場に困っているとぼやいておりましたよ。鬼たちも、毎日亡者のいない針の山や地獄の煮えたぎった釜などの掃除ばかりやらされておりますから、うんざりといった様子です」 「観音様は、娑婆だけではなく地獄まで出かけられるのですか?」 「はい、わたしといえども修行中の身ですから、あまねく何処へとも参りますよ」 「それにしても、人間がいままで一人も地獄に落ちてはいなかったとは思いませんでした」 「阿弥陀如来様がおられる限り、今後もありますまい」 「では、お岩には誰も地獄などへは落ちていかぬ、と答えればよろしいのですね」と親鸞がほっとした様子で言うのを、観音菩薩は手で制し、軽くかぶりを振った。 「お岩や伊右衛門、お梅は、ここでの則を超えてしまいました。阿弥陀如来様の決済を仰がねばなりますまい。親鸞がお岩たちと会うまでに伺っておきます。そのときには私も立ち会いますが、かの者たちにはそのことは言わぬようにしてください」と、観音菩薩は心なしか沈んだ口調で言った。 親鸞はその様子に一抹の不安を覚えたが、何も言えぬままそこを辞し、帰路についた。 屋敷に戻ってからも、その不安は続いた。 −阿弥陀如来様のおかげで、今まで一人も地獄に落ちていかなかったという、結構なことではないか。だが、観音菩薩様のあの沈んだ口調はどうしたことだろうか。もしや、則を超えたとおっしゃっていたが、そのことであのものたちは地獄へ落ちていくというのであろうか。そうなればわしが初めて地獄に落ちていくことに手を貸したことになる。いやまさかこれしきのことでそのようなことはあるまい。だが、しかし…。 親鸞はまた悶々とした夜を過ごさねばならなかった。 当日になった。 お岩は待ちかねていたように、朝早くから来た。眠られぬ夜が続いていたのか、目が赤かった。遅れて、伊右衛門とお梅は、待ち合わせでもしていたのか連れ立ってきた。それを見て、たちまちお岩の顔に青筋がたつ。もはや嫉妬に狂った人間に返ったかのようだった。どうやら毒を盛られ醜い顔にされ苦しめられたことより、そのことのほうが、我慢がならぬようだ。 お梅はそんなお岩を見て、勝ち誇ったように伊右衛門にぴたりと寄り添っている。が、優男の伊右衛門は何故か浮かぬ顔をしていた。 −そういえば、この前の帰り際もにやにやしていた顔を引っ込め、このような表情になっておったな。こやつ、何かを察しておるな。 が、親鸞は素知らぬ顔をした。
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